07
(亜麻色の髪の乙女も今や)



夫がいて、子供がいて、主婦として家庭を回す。
それが出来たとき、私は1人前の成熟した女になれると思っていた。
職場や街で出会う"成熟した女達"に憧れをみた。

普通の妻、普通の母親。

その"普通"が私には分からなくて。

彼女たちが愚痴として溢す、妻や母親という役割が担う苦労や悩みを聞く度に、千春ちゃんいつも幸せそうでいいねぇ、なんて言われる度に、お前にはその資格がないと言われているような気がした。

その証拠にほら、いつまで経ってもお前は若く、子供もできやしないじゃないかと。

私には彼女たちが、とても誇らしげに輝いて見えた。
苦労の末に何かを成し遂げた、変革者のように。

そして思った。
どんなに願い、焦がれたとしても、私にはそんな力はないのではないか、最初から無理な話なのではないかと。

だから少しでも生理が遅れると、何かに迫られる不安と焦りと、遂に私も選ばれたんじゃないかという期待感が膨らんだ。
そして生理がくるたびに、あぁまたダメだった、という落胆と、やっぱり私には無理なんだ、という安堵とも諦めともつかない感情の間で揺らいだ。

そしてまた私は、振り出しに戻った。
同じところを、ぐるぐると。
子供さえできれば妻も母親も同時に手に入るのに、という同じ思考を。

でも違うのだ。
私は誰かの妻になりたかったわけでも、誰かの母親になりたかったわけでもない。
そんなのは、全然、望んじゃいなかったのだ。

私はただ、普通の女になりたかったのだ。
男を不幸にする女ではなく、普通の、誰かと幸福に生きていくことができる女に。

私はただ自分が、何も考えず、無意識的な幸福を享受できる人間になりたかった。

そんな傲慢で不遜な考えを持ってしまった私は、結果的に、夫も大切だった幼馴染の彼も、不幸にしてしまったのだろう。
私がいなければ、とどうしても、そう思ってしまう。

例えば、棚の上のものを取ろうとしてぐらついた瞬間、かつて幼かった幼馴染の逞しい腕に抱きとめられた、こういう時に。



「大丈夫か?」

尽八が心配そうに、私の顔を覗こんだ。
私がここへ来てから、彼はよくこんな顔をした。
昔はしなかった、そんな大人びた顔を。

ありがとう、と言ってそっと、その腕を押し返すと体温は離れていくけれど、視線は残ったままで。

最後の客が帰って店仕舞いした店内には私たちと、死に向かって息をしている植物達だけがひっそりと存在している。
好きなものをかけていいと言われ、私が選んで流しているドビュッシーのピアノ曲が、不思議なテンポで、上がったり下がったりしている。

これはまるで。

私は鮮明に戻ってくる記憶を手繰る。

夫と私が暮らしていた、あの部屋のようだ。

「千春」

こうして名前を呼ばれて、ごつごつとした男の人の手が伸びてくる。

夫の手を、私は鮮明に思い出せる。
血管の浮いた、男の人にしては綺麗な、白い腕。

「っつ…!」

思わず顔を背けて、自分の全身が強張るのを感じた。

恐怖とか不安とか、そういうものもあったけど、一番感じていたのは、嫌悪感。

「…すまない…」

恐る恐る視線を戻すと、頼りなく拳を握った尽八が立っていた。

そんな目で見ないで。
私は、貴方に相応しい人間ではないのだから。

すぐにその視線に耐えられなくなって、横にずらす。

視線の先には、今朝生けたヤマユリの蕾が解けかけていた。



fin