09
(人生はただ螺旋階段のように続く@)



幼い頃の母との思い出は2つ。
彼女と過ごした数年間で、はっきりと覚えている母の姿。

うち1つは父が居なくなった日の朝のこと。
いや、正確にはあれが私の父親ではなかったのだけれど。
それでもあの人は唯一、家の中で私を気にかけてくれる大人だった。

母は1人、アパートの窓辺に置いた椅子に腰掛け、ぼんやりと酒を呑んでいた。
曙光がちょうど差してきて、その横顔を照らしていた。
泣いているような、微笑んでいるような、その表情は子供の私には少し難しくて、ただ深々と哀しみが満ちていることは子供ながらに何となく感じていた。

『起きたの?』

突っ立っていた私にちらりと視線を寄越して、また窓の外に視線をやった。
お父さんは?と呟くように私が言うと、母はかたんと椅子を引いて立ち上がり、緩やかな足取りで私の傍に来て言った。

『あの人はアンタのお父さんじゃないの。
私の男だったのよ』

まぁもう居ないけどね、そう言って横をすり抜けて行った彼女の余韻に、背筋が粟立ったのを覚えている。

母は別に暴力を振るうわけでも、私の世話を怠るでも無かった。
ただ淡々と私を生かし、育てた。
そこに、どんな想いがあったのか、私には分からない。

だけど、母の境遇を想像するに思うのは、孤独と苦しみだ。

今思えば彼女は、とにかく寂しくて、苦しくて、子供に構っている暇などなかったのだろう。
そして私の存在は、母の寂しさを癒すどころか、より一層彼女に孤独感を感じさせたのだと思う。

若くして子供を産んだ未婚の女。
子供が可愛くなければただただ不幸だ。
救いようのないくらいに。

だからきっと、ぷつんと糸が切れたのは仕方の無いことだったのだろう。


ある夜、ふと目が覚めて起きていくと、母が玄関に立っていた。


ふわふわにカールした髪の毛。
きらきらと窓から差し込む光に、アクセサリーが輝いた。
美しくほどこされた化粧の中でも、はっきりとひかれた紅が際立っていた。
あ、という口の形で開いた隙間から、白い歯が覗いている。

子供ながらに、綺麗だ、と思った。
こんなに綺麗な母は見たことがない、と。

私たちは数秒見つめ合ったまま立っていた。

『おいで』

不意に母がそう言って、私は母に近寄った。
母が唯一持っていた、甘い香水の香りが、ふわ、と漂って、私はすぅと息を吸い込む。

『いつか、あんたにも、分かる日がきっと来るわ』

私の目を真っ直ぐに見てそう言った後、彼女はキャメルのコートを翻して玄関を出て行った。

あの時つけていた母の香水の香りを、私はずっと後になってキンモクセイの香りだと知る。
この香りを嗅ぐと、ふと、あの日のこの、母の言葉を思い出す。

なんで母があの時そんなことを言ったのか、今でも分からない。
けれど実際、母が言った通りになった。

全てを置いて、逃げ出して、結局孤独に苛まれることになった、母と同じに、キンモクセイの香りを漂わせる、大人になった私。

あの時置いていこうと思ったのは、自分の生きた軌跡とそれに纏わる全てだったはずなのに。
どうして私はここに戻ってきてしまったんだろう。
どうして会いたいなんて、帰りたいなんて、願ってしまったんだろう。


fin