堕ちてこないで其処にいて


「で、何か言いたいことは」
──あぁ、怒ってる、

紅花は一人この場に居座るつもりらしい五条になんて言い訳しようかと思案した。いや、おそらく何を言ってもダメだろう。それでも心配をかけたのだ、何か言わなければ。紅花が口を開きかけた時だった。全身がどくり、と音を立てた。全身の血が沸騰している様に熱い、喉が渇く。この感覚を紅花は知っている。

「はっ、──嘘なんで、」

人を食べたいという完璧に御してしたはずの衝動が顔を出す。急に様子が一変した紅花に五条は訝しげな表情で歩み寄ろうとする。

「おい、」
「──やっ、来ないで」

弱々しい拒絶の中に五条は見た、欲と狂気の入り交じる紅い目を。湿っぽい息を吐き出す口から覗いた鋭い牙、我が身を抱くいつの間にか伸びた鋭い爪、そこに居たのはあの日、五条を恋に落とした鬼だ。紅花は危険な熱に浮かされそうな頭でどうしてを唱え続ける。あの日より紅花を苛む衝動が格段に強い。辛うじて繋ぎ止めている理性で紅花は考える。

──なんで今更、反転術式のせい?いや、今は悟を追い出さないと。
「…さとる、出てって」
「やだ」
「っ、」
──まだ怒ってるの?いまはそれどころじゃ、

静かに歩み寄った五条が紅花の手に触れる。自身を抱きしめている為に二の腕にくい込んでいる鋭い爪、それをひどく優しく攫っていく。まるで傷付けるな、と言われているようだ。人にあるまじき食欲に潤む紅花の瞳が五条を映す。

「食いたいの」

あの日と同じ問いに紅花の瞳からはとうとう涙がこぼれた。見ないで欲しい、こんなおぞましい生き物を。お願いだから、その美しい瞳に映さないで。そう願って止まないのに、五条が紅花を見る目はあの日も今日もひどく優しい。五条はあの日も今も、紅花を受け入れてくれる。だから泣きたくなるほどに嬉しいのだろうか。こんなにも縋りたくなるのだろうか。
言っては駄目だと分かっているのに、紅花はもう限界だった。一度、ごくりと喉を鳴らし、紅花は五条に縋った。

「食べたい、」
「いいよ」

緩く手を引かれ、紅花は五条の広い胸に飛び込んだ。温かい血の通った温度も、紅花の耳朶を打つ心臓の音も、紅花の背に回され、あやす様に撫で下ろす大きな手のひらも全てが食欲に繋がる。紅花は本当にいいのか、と不安げに真上にある五条の顔を見上げた。ずっと紅花を見下ろしていたらしい、五条と視線が絡む。彼は愛おしいものを見る優しく甘い表情で、紅花はひどく動揺した。それを敏感に察する五条が色気たっぷりに微笑んで、紅花の頬を一度するりと撫でてから顔を寄せた。豊富でないにしろ経験くらいある、何をされそうなのかも紅花にはちゃんと理解出来ていた。紅花の瞳が閉じていく。突っぱねなければいけないのに、紅花には出来ない。
互いの唇が重なった。

「、」
「ふ、」

ゆっくりと角度を変えながら食まれる紅花の唇。これではどちらが食べられているのか分からない。数度繰り返したところでガリ、と五条が自身の舌を噛み切り、また口付ける。ぬるり、と紅花の唇を撫でた肉厚な舌。初めての感触に紅花の肩が跳ねた。身を引こうとする紅花を五条の手が抑え込む。彼もまた完全に熱にうかされていた。五条の舌からふわりと香る血の匂いに紅花は羞恥で繋がっていた最後の理性を手放した。自ら舌を出し、五条の舌に触れる。彼氏でもなんでもないクラスメイトと血の味のキスなんて最低な話であるし、そもそもまずディープキスなんて普通なら恥ずかしいに決まっているのに、今はただ彼の血が欲しい。五条の血が甘くてたまらない。

──紅花はさ〜、五条のことどう思ってる?
──かみさま、かな

いつかの家入と交わした問答が頭を過った。違ったよ、硝子。かみさまなんて綺麗なものじゃない。自分を優しく拾ってくれた手が好きだ。死に際にあっても思い出してしまうその空を閉じ込めたような碧眼が好きだ。初めて掬い上げてもらった日から紅花は五条に恋をしている。だからこそ、こんなにも五条が欲しい。その眼を、口を、手を、血を、骨だって残さず食べてしまいたい。この暴力的な食欲こそが恋ならば、きっと紅花は人を好きになってはいけない。

──こんなもの、知りたくなかった。

ポロポロと涙が伝う。薄目を開けた五条が泣いている紅花の目元を、口付けながら長い指で拭った。空いた隙間から、なんで泣いてんの、と低く掠れた声で問いかけられる。
五条が戯れや親切心でこんな風に触れてくるとは思わない。五条はきっと自分を好きだ。だからこそ、彼には知られてはならないし、知られたくない。紅花は呪術師にはなれても、人にはなれないのだから。

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