一部屋の非日常


紅花は不思議な子どもだった。母に手を引かれていても、ふと立ち止まり何もない場所をじっと見つめる。そして指をさして言うのだ。

ねえ、お母さん──あれ…
ん?どれのこと?

そして自分以外には見えないと分かると何事も無かったかのように笑って言うのだ。やっぱり何でもない、と。

物心ついた頃からそれらは見えていた。"お化け"と呼ぶにはおぞましい姿のそれらが自分以外には見えないのだということも、かなり早い段階で知った。そこからは見ないふり──幸いなことにそれらは襲ってくるようなものではなく、そこに在るだけだったから。

非日常な日常が急速に変わり始めたのは、13歳の誕生日からだ。
誕生日の日、学校に行くといつも一緒にいる友人が満面の笑みで待ってましたと言わんばかりに駆け寄ってきた。誕生日を祝う言葉と共に差し出される包装されたプレゼント。友人のはじける笑顔を前に紅花は考えてしまったのだ──なんて美味しそうなんだろう、と。
何を考えてるんだ自分は、人を食べたいだなんて。その時の紅花は頭をぶんぶん降って嫌な予感を追い払った。だがその時感じた衝動はふとした瞬間に出てくる。そしてそれはどんどん大きくなっていった。

紅花には彼氏がいた。小学校から一緒で中学に入ってからお付き合いを始めた初めての彼氏だ。朝は部活の朝練があるので別だが、その分どちらかがどちらかを待って特別な用がない限りは一緒に下校した。休日には近くのゲームセンターや書店などでデートした。キスもまだ数える程しかしたことの無い、非常にプラトニックな付き合い。
ある日の下校中、日に日に様子のおかしくなる紅花を前に彼氏は心配していた。一方、紅花が彼の心配も上の空で考えていたのは別のこと。紅花には彼氏が一番美味しそうに見えていた。
手も、足も、胸も、腹も、目も、鼻も、口だって、彼は全てが美味しそうだ。彼と数回だけ交したキスの甘さを思い出す。触れるだけで甘いのだ、食べたらどうなのだろう、きっと極上の甘さに違いない。


「鳥居?大丈夫?」


覗き込んできた彼の口元、その奥の赤い舌を捉えた時紅花は熱に浮かされるままに、ふらりと彼の頬に手を伸ばし、さらりと撫でた。
突然色香を放ち始めた少女にドキリとした彼氏は口付けられる、とそっと身構える。紅花の少し開いた口に鋭い牙が生えたことにも気付かぬまま──。


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入らないでと両親にきつく言って聞かせたはずの扉を開け放たれ、紅花はそちらに視線に向けた。

──だれ?お父さんじゃない、お父さんより、細くて、背が高くて…。

カーテンを締め切り、電気も消した暗闇の中で、その白はよく目立った。恵まれた身長にスラリと長い足、その上に乗った頭は輝く白髪、極めつけは今まで見たこともないほどの造形美に、宝石を閉じ込めたような碧眼。
飢餓に苦しむ頭でなんて綺麗な男の人なんだろう、と思う。特にその眼…ほじくり出して食べたらどんな味がするの?手を伸ばしかけて、ハッと我に返り自分で押さえつける。人とは思えない、恐ろしい衝動。


「ふっ…うぅ…出ていってください…。ちかづかないで、」


弱々しく拒絶の言葉を吐きながら蹲る少女に五条は顔色ひとつ変えず部屋の中を見回す。散らかった部屋、ベッドの上には落ちた血痕が乾いており、少女の手首には飢餓に耐えるため何度も自分で噛み切ったのだろう痛々しい傷、そして五条の六眼だけに見える微妙な違和感──導き出された答えは。


「腹が減ってるんだろ」


びくり、と少女の方が跳ねる。
五条は続けた。


「人を喰いたくてたまらないんだろ」


違う、とそう言いたいのに口は音を発さずはくはくと動くだけ。
五条は少女に歩み寄り、ベッドの上で危険な衝動に怯える少女と同じ目線にしゃがむ。


「助けてやるよ。俺らと一緒に来い」


差し出された手のひらをぼんやりと見つめる少女の顔は13歳とは思えぬほど大人びていていた。目元に残る涙のあと、口元を彩る血の跡少し開いた口から鋭く光る牙、隠しきれない衝動と怯えと悲しみをごちゃ混ぜにして溶かしたような、紅血の双眸。
日常に紛れ込んだ非日常に、おぞましくも美しいその主の姿に、五条の口元には笑みが浮かんだ。


/


「近づかないで…!」


紅花は彼氏を突き飛ばした。後ろによろめいた彼氏は一瞬何が起こったのか飲み込めなかった。だが明らかに普通でない紅花の様子に先程のことを怒ることはせず、かわりに大丈夫か、と声をかける。


「ごめん…ちょっと体調悪くて…」
「え、言ってくれれば良かったのに。送るよ」
「いい!大丈夫だから!──っじゃあね」


彼を視界に入れてはいけない。見るな、見るな、逃げろ!
今度こそ襲ってしまう、それだけはダメだ。人を食うなんて、そんなことあってはならない。紅花は全力でその場を走り去った。

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