懐玉・あなた次第の約束事


──不甲斐ないなぁ、

美しいエメラルドブルーの海に浮き輪ごと揺られながら、紅花はため息を吐き出した。彼女の落ち込みの原因を話すには30分前まで遡る。
滞在を一日伸ばそうと提案する五条に、夏油がこっそり耳打ちしているのを聞いてしまったのである。昨日から術式を解いていないな、と。
五条が術式を解いてない事を、紅花は聞くまで気付かなかったのだ。いかに五条といえど寝ている間も術式を張るのは不可能だ。昨日から解いていない、ということは丸一日は寝ていない、それどころか今日も寝るつもりはないという。ただでさえ頭と眼を酷使する難しい術式、そこに睡眠不足が加わるなんて。
寝なくて平気か、と訊ねた夏油に、桃鉄99年やった時の方がしんどかったわ、それにお前もいる、と返した五条。後者が本音だろう。彼等は二人揃えば"最強"だ、そこに紅花の存在は含まれない。自分では五条の負担を軽くするには足りない、その事実がもどかしい。

「お前、なんで一人で波に揺られてんの」
「うわぁ!び、ビックリした…」

目を閉じ、波に揺られる。間近で聞こえた声、いつの間にか目の前まで来ていた五条に驚き、紅花は思わず浮き輪から仰け反った。そのまま浮き輪ごと海の中へひっくり返りそうになった紅花の背に、五条がすかさず手のひらを差し込み支えてやる。
紅花の着ている水着は、彼女の髪と瞳と揃いの黒と赤のハイネックビキニである。デザイン上、胸元が無防備にはならないものの背中は心許ない。背中に直接触れる五条の手の温度に、紅花の顔に熱が集まる。
目敏く紅花の心中を悟った五条がニヤリと笑んだ。

「何想像してんの、えっち」
「えっ──!し、してないっ!!」

顔を真っ赤にして否定する紅花に、五条は不意打ちの口付けを贈った。素早く触れて離れた一連の行為を、紅花が浮き輪に顔を押しつけながら叱責する。

「にんむちゅう、」

説得力、皆無である。五条がいつもよりあどけない笑顔ではっと笑う。
こういうところがダメなんだって!──己を律し、紅潮する頬をパチパチと叩きながら、紅花は五条をじとりと見やる。

「……術式、解かないんじゃなかったの、」
「あぁ、聞こえてたんだ?今は平気だろ、変な奴もいねえし、天内には傑がついてる」
「理子ちゃんには聞こえてない。ごめん、私、普通に遊んでた…」
「お前はそれで良いよ。その方が天内も喜ぶだろ」

五条は決して紅花を信頼していない訳ではない。今、彼が無理をしているのは夏油と紅花を温存するため。そして紅花に伝えなかったのは、明日にはその身を捧げる天内と、今まで同い年のいなかった紅花を気遣ってだ。
紅花は通常ありえないスピードで実力を伸ばしている。それはクラスメイトである彼等が一番よく知っている。

「それより天内と"次"の約束でもしてやれよ」
「え、でも…理子ちゃんは、」
「天内が望むなら俺達はアイツを逃がすよ」

それは、天元様を敵に回すということか。呪術界に反旗を翻すことにも等しい。ここは沖縄だからいいものの、こんな会話もし関係者に聞かれたらただでは済まない。
紅花は言葉を失った。

「先生が言ったろ。"護衛"と"抹消"だって」

自分達は、呪術界ひいては一般社会の安寧のために、一人の少女を生贄に捧げようとしている。どんな大層な大義名分を並べようと、14歳の少女の未来を奪おうとしていることに他ならない。
罪であるという意識を持て──夜蛾が言いたかったのはそういう事だ。これは、罪だ。分かっていた。だからこそ、紅花は思い詰めていたのだ。しかし、二人が先んじて出していた結論は違うらしい。

「何で、私に言ったの?私が反対するって思わなかったの?もしかしたら高専に連絡したかもしれないんだよ」
「はっ!それこそないだろ。お前は同い年の女が生贄にされることに何も感じない奴じゃねえだろ」

エメラルドブルーを背景に、蒼穹の瞳が細められた。五条はいつもこうだ、こうして紅花の全てを見透かす。紅花が言わずとも、不安も劣等感も丸ごと包む、最初からそんなものはなかったみたいに。

──理子ちゃんはまだ生きられる、"次"がある。それが叶うなら、どんなに…。
「天内には明日送り届けたら聞く。天内次第だけどな」

だから、もし天内が生きる事を選んだらその時は紅花が次の約束をしてやれば?
頬に触れる大きな手のひらに、紅花は猫のように擦り寄った。手の温みに浸っていると、白浜から聞こえてくる天内の声。

「おーい、紅花!あっち行ってみよう!」
「うん!今行く!…悟も行こう!」
「ったく、落ち込んだりアガったり手のかかる彼女だな」

浜に戻ろうと浮き輪を引いてくれる五条に後ろから腕を回して、紅花が耳元で囁く。
そんな彼女を放っておかない悟が好きだよ。
いつもドキドキさせられているのだ、これは美しい景色と沖縄の夏の熱気に当てられた紅花のささやかな仕返しである。

[title by 失青]

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