懐玉・いつかの無力


「ぅ…っ、すぐ、る…!」
「人の心配してる場合かよ」

甚爾により、意識を奪われた夏油。地に伏した彼に、紅花が呻きながら手を伸ばした。同じく倒れる紅花もまた意識こそあるものの、斬られ貫かれ、地面には流れ出た血がシミを作っていた。懸命に夏油に手を伸ばす少女の体を、甚爾は遠慮なく蹴り飛ばした。ゴロゴロと転がった紅花が壁に当たる。その衝撃から、身体に走った激痛に、一瞬呼吸が止まった。冷たい地面に横たわり、蹴られた箇所をおされながら、紅花は口から血を吐き出した。

「ぅ、げほ、」

ひゅーひゅーと浅い呼吸が響く。片肺、それと別の内臓もやられている。
伏黒甚爾の前に、紅花はただ無力だった。紅花はもちろん、五条と並ぶ実力を持つ夏油ですら、歯が立たなかった。一切の呪力と引き換えに、肉体と五感が異常に強化される天与呪縛──その力の凄まじさ。鬼のような強さ。紅花なんかより彼の方がよほど、化け物だ。
紅花を蹴り飛ばしたのと同じ様に、甚爾は夏油の頭を蹴った。

「呪霊操術となると面倒だ。お前は殺さないどいてやるよ。親に恵まれたな。だが、その恵まれたお前らが呪術も使えねぇ俺みたいな猿に負けたって事、長生きしたきゃ忘れんな」

「ッ──!」
「言ったそばから威勢のいいガキだな。だが届かねぇよ」
「ぁ…さと、…」

痛む体に鞭打って、未だ意識のある紅花が甚爾に斬りかかるも、涼しい顔であしらわれた。背中を斬られて、今度こそ紅花は起き上がれない。無意識に、五条へと助けを求めた。来るはずがない、だって彼は甚爾に殺されたのだから。
五条は、黒井は、天内は、もうこの世にいない。そして紅花と夏油は、甚爾の気まぐれによって命を拾っているに過ぎない。嗚呼、なんて無力なのか。たった一人の男に、大切なものを全て踏み荒らされたという事実に、紅花は伏したまま、血が出るほどに手を握った。
「よっこいせ、」と甚爾が、天内の遺体を肩に担ぎあげた。

「──っまて、理子ちゃ…!どこ、っげほ、」
「あぁ?こいつの死体持ってかねぇと、金がもらえないんだよ」
──彼は何を言っているの。お金、たかだかお金のために、理子ちゃんは、殺されたの?

かえせ…返せ!
滅多刺しにされ、ろくに動かない身体を引き摺る。紅血の瞳に一杯の涙をため、憎しみの感情を持って己を睨みつけてくる少女。甚爾はそれを一瞥し、「はっ、」と嗤った。まるで無様だと言わんばかりに。

「恨むなら弱い自分を恨むんだな。この結果はお前等の弱さが招いたもんだ」

もう動かない天内を連れ、悠々と去っていく甚爾に手を伸ばす。涙と意識の混濁で霞む視界に、紅花は深く己の弱さを呪った。

──駄目だ、落ちるな!理子ちゃんを取り戻さないと…!せめて、黒井さんと一緒に…!理子ちゃん…!
「かえ…せ、」

紅花の意識は、暗転した。


/


「起きろ!紅花!」
「あ、……しょ、ぅこ」

必死の呼び掛けに、薄らと目を開けた年下の級友に家入は平静を装いつつも安堵した。敵は紅花が反転術式持ちであることは予め知っていたのだろう。怪我の度合いは夏油よりも彼女の方が酷い。治してやりたくとも、家入の術式は彼女には効かない。起こして自己治癒させるしか手は無い、目が覚めた今、これで紅花は大丈夫だ。それに対して紅花の意識は全く別のところにあった。

──私は、どのくらい意識を飛ばしてた?理子ちゃんを取り戻しに行かないと──!
「行かなきゃ…!」
「とりあえず、あんたも自分で治療──ちょっと!」

気を失う前を思い出し、紅花は自らに反転術式を施す。まずは内臓、次に動くのに支障が出る深い傷──それらを自我を保てるギリギリで。
それが終わるや否や、飛び出す紅花に、夏油の治療に集中していた家入は反応が遅れた。家入の静止の声も無視して紅花は走る。取り戻さなくては。彼らに天内を奪われたままになんて出来ない。
喉が渇く、血が欲しい。だが、飢餓状態まではいっていない。脇腹が、背中が、痛い。完治した訳では無い、だが動ける。
甚爾の言う依頼主は間違いなく盤星教の教祖だ。盤星教の拠点、その中の何処かに、教祖と甚爾、連れていかれた天内がいる。任務の事前情報として与えられていた、数箇所の拠点を脳内から引っ張り出し、近いところから虱潰しに回る。やがてたどり着いた他よりも一際大きな拠点で、彼等は戦っていた。

薧星宮での戦いの時、五条が死んだと聞かされて、本当はその場で泣き叫んでしまいたいほど辛かったのだ。しかし、紅花は呪術師だからその役目を全うする義務がある。泣き崩れるのは今ではない──彼が死しても尚、紅花の世界に色濃く残る蒼が、彼女を奮い立たせた。
そんな彼が、五条が、生きている。生きて目の前で甚爾と戦っている。生きていてよかった。反転術式を習得したのか。どうしてここにいるのか。伝えたいことはたくさんあるのに、彼が生きていて嬉しいのに、紅花の心は全く別の感情を訴えてくる。

──あれは、本当に悟?

五条の、術式反転<赫>で十数メートル先まで弾き飛ばされた甚爾。血まみれで笑顔を浮かべながら宙を舞う五条を、あれほど焦がれた蒼い瞳を──紅花ははじめて怖いと思った。

[title by 溺れる覚悟]

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