懐玉・いまわたしを殺すもの


五条悟はこの日、本当の意味で最強になった。正に、天上天下唯我独尊。人間より、呪術師より、さらに上の存在へと昇華した。全てが掌の上にあるかのような全能感。
五条は今、天内のために怒ってはいない。悲しんでもいない。ただただ、笑っている。紅花にはその理由が分からない。

──ねぇ、悟。理子ちゃんが死んだのに、なんで笑ってるの。

紅花は、天内が黒井が死んで悲しい。甚爾に手も足も出なかった事が悔しい。自分の無力が、呪わしい。五条も同じだと、そう思っていたのだ。だが、彼は笑っている。天内が死んで、黒井が死んで──甚爾を圧倒して笑っている。まるで、新しい玩具を与えられた子供のような笑顔で。
虚式<茈>、順転と反転から生まれた架空の質量が甚爾の身体を抉り取る。その手で人を殺したというのに、何の感情も抱いていない蒼穹の瞳に、紅花の背には冷たい感覚が落ちた。

戦いの後、紅花は五条の背に声をかけることができなかった。五条が去ったあと、血の海に沈む甚爾の死体を前に、紅花は立ち尽くす。甚爾のことを殺したいほど憎いと思ったのは嘘ではない。だが、死んで嬉しいかと聞かれたら、そうでは無い。分からないが、また一つ。

「紅花、一人で行くなんて…!」

後を追ってきた傑と合流する。無謀だと叱りつけて来る夏油に、紅花は「ごめん、」とだけ答えた。
完治もしていないのに走り回り、疲弊した紅花を夏油の手が引く。自分が天内を連れ帰って来るから此処で待っていた方がいいのではないか、その夏油の提案に紅花は頑として首を縦には振らなかった。甚爾が五条によって倒された今、命の危険はない。夏油は彼女の意志を汲んだ。二人連れ立って建物の中に入り、奥へ、奥へ──一枚の扉を開けた。

血濡れの五条が、もう動かない天内を横抱きに抱える。それを囲む、人、人、人──。老若男女、彼等は一様に笑顔を浮かべ、拍手をする。ここでも紅花は分からなかった。

──なんで、この人達は笑ってるの。
「遅かったな、傑」
「悟…だよな?」

紅花が五条にそう感じたように、夏油もまた彼がどこか変わってしまった事を知る。

「硝子には会えたんだな」
「あぁ、治してもらった。私は問題ない。ただ、飛び出して来てしまった紅花がまだ完治していない」
「紅花、高専に帰るまで我慢できる?」
「う、ん…今のとこは喉が渇く、だけ…」
「分かった。帰ったら、治そう」

天内を取り戻すという目的は果たした。帰ろう、と促す夏油を五条が呼び止める。

「コイツら、殺すか?」

今の俺なら、多分何も感じない。そう言った声は酷く冷たく、紅花は己の内を見透かされたようでドキリとした。整理のつかない感情、それでも分からないなりに、紅花は彼等が心の底から憎かった。それこそ、天内の代わりに彼等が死ねばよかったのに、そう思ってしまうくらいには。

「いい、意味がない」──意味?意味って何。
「見た所、一般教徒しかいない。呪術界こっちを知る主犯は逃げた後だろう」──だったら彼等には罪がないの。
「元々問題のあった団体だ。じき解体される」──だからもういいって?

夏油の言葉に、心の中で問いかける。
天内の同化、それそもそもが呪術界と一般社会を守るためのものだ。天内を殺したのは甚爾か──否、天内は非術師に、その身を捧げて守ろうとしたものに、殺されたのだ。
何故彼等は笑っている。一人の少女が死んだのに。彼等はそれが当たり前かのように、喜ばしいかのように、笑っている。いや、実際に喜ばしいのだ彼等は。気持ち悪い。

「ゔ、ぉえ…!」

「けほ、けほ、!」

身体の内を這い上がる天内が殺された時の比ではないその嫌悪感に、紅花は今度こそ胃の中のものをその場で吐き戻した。胃液で喉がヒリついて気持ち悪い。なんて醜悪なんだろう──少なくとも、吐瀉物を撒き散らし、公衆の面前で蹲る自分よりはよほど彼等の方が醜悪だ。何より目の前の彼等と──それを守ることを理想に掲げ、命をかけてきた事が何よりも耐え難かった。
大切な人達の死が悲しい。二人を殺した甚爾が今でも憎い。それに少しでも関係のある全ての人が憎い。傷が痛い。五条が少し恐ろしい。喉が渇く。自分の無力が呪わしい。紅花の心はぐちゃぐちゃだった。

紅花には分からない。
天内と黒井が殺された理由も。五条が笑った理由も。甚爾が死んだその感想も。非術師が喜ぶ理由も。夏油の言う"意味"も──紅花には分からない。

「意味ね、それほんとに必要か」

五条の声が別の世界の話のように、遠い。紅花の目からはもう涙すら零れなかった。
分からない。分からない。分からない。

"──非術師のために"呪い"として呪いを祓う、私は呪術師だ。"

一年前、少女の頭蓋を砕いたあの日に掲げた理想の正しさすら、もう紅花には分からない。

[title by 失青]

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