願えば夢になりますか


──だから言っただろ?正論は嫌いだって。

蹲って胃の中の物をその場で吐き出す紅花を見下ろして、五条はごちる。
世の中の人間が夏油のように正論を大きな声で語れるのなら、紅花のように清廉に生きられるのなら、最初から呪霊なんてものは生まれない。自分が悪人だと割り切って行動している奴らはまだ良い、例えば呪詛師。だが、今回目の当たりにしたのは、悪意なき悪意だ。間接的に人を殺しておきながら、そこに何の疑問も罪悪感も抱いていない。それを正しいことだと信じている。呪術師は、彼等も守らなければいけないのだ。優しく真面目な人ほど、呪術界このせかいは生きにくい。
人々の悪意、それをただしく理解し、割りきれなければ矛盾が生まれる──紅花のように。今まで紅花がそれを目にしなかったのは幸運でしかないのだ。

五条は正論が嫌いだ。
綺麗な言葉を並べて、自分を、大切な人達を傷つけるから。


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高専に戻り、まず紅花は家入にこっぴどく怒られた。傷もろくに治さず何をしているんだ、と。行った先で五条が甚爾を倒していたからよかったのものの、下手をすれば死んでいたのは紅花だった。普段落ち着いている家入がここまで怒るのを、紅花は初めて見た。その怒り具合から、家入にどれだけ心配をかけたのか理解し、紅花は一言「ごめんなさい…」と、俯いたまま謝った。
ふーっ、と息を吐いた家入が「分かればいい」と、乱れた頭を撫でつけた。元より、夏油から今回の任務の顛末を聞いていた家入は、紅花がどんな気持ちでいるのか鋭く察している。精神的にも肉体的にも限界がきているのは見て明らかだ。素直に非を認めるのなら、家入はそれ以上言うつもりはない。

「取り敢えず、無事でよかったよ。五条と夏油は先生が報告にこいってさ。紅花はもう戻って休めって」
「うん、」

五条等から離れ、紅花は歩き慣れた寮までの道を、足を引きずるように歩く。
酷く、疲れた。この三日間で紅花の気持ちは180度変わってしまったのに、景色だけはいつものままだ。天内死んでも世界は変わらない──その事実が、また紅花を苦しめた。

──とりあえず、血を流さないと。

部屋に戻り、裂けて穴の空いたセーラー服を地面に落とす。血が乾いて少しバリつくそれをゴミ箱に捨てるでもなく、紅花はシャワールームへと直行した。こんな時でも普段通りに動こうとする自分が嫌になる。
ブラジャーとショーツ、そしてキャミソールそれだけを身に付けたまま、紅花は頭からシャワーを被る。落ちてくる湯が全身を濡らし、湯に滲み出た血が溶けて、うっすら赤く色づいては、それは排水溝に流れていった。まるで血の涙を流しているようだ。

この血が全て流れてしまえば、腹の傷が背中の傷が癒えてしまえば、眠って明日になれば…心についたこの爪痕も消えるのだろうか。また明日から誰かを守るのだと、真っ直ぐ立っていられるのだろうか。──天内達の死を嘆かなくなるのだろうか。これが生きるということなら、この世界はひどく生きにくい。

シャワールームに篭り10分も経たない頃、突如として、シャワールームの扉が何者かの手で開かれた。肩を震わせた紅花が首だけで後ろを振り返る。美しい碧眼を見開く五条の姿がそこにはあった。

「さと…」
「このバカッ!何で先に傷治さねぇんだよ!」

年頃の男子らしく、下着姿の彼女に照れる、そんなシチュエーションもなく、五条は怒鳴った。
「あーもう、完全に開いてるじゃん…」と、湯に混じって流れる血を一瞥して、五条は頭をガシガシ掻いた。そして何を思ったのか、舌打ちを一つこぼした五条が、制服のままシャワールームに押し入り、後ろ手に扉を閉める。

「や、何、」
「逃げんな」

胸元を隠し、一歩後ろに後退した紅花の手を絡め取り、五条が身を寄せた。紅花がその真意を確かめようとする間すら与えずに、紅花を壁際に追い詰めた五条は、彼女の唇を塞いだ。

「んっ、んん…!」
「ん、は、」

それが、いつものような治療の一環で行う触れ合いでないことはすぐに分かった。
深く触れるそれに苦しくなり、紅花が酸素を求めて口を開けたその瞬間に、五条の舌がこじ開けるように割り入る。奥に隠れようとする紅花の舌を、舌で引き出して唾液を絡ませ合う。いつもより荒々しいキスに紅花の瞳がようやく潤んだ。
その様子を薄目を開けて観察していた五条は待ってましたとばかりに、さらに深く、深く、口付けた。手を握ってない方の手が、キャミソールの中に差し込まれ、紅花の薄い腹を撫ぜる。

──泣けよ。

怖いと、止めてと、泣けばいい。突き飛ばしてもいい。最低だと罵ってもいい。それでお前が泣けるのなら、何だっていい。

五条は最初から泣かない紅花が気にかかっていた。最初は我慢しているのかとも思ったが、非術師の醜悪さに触れたときですら彼女は泣かなかった。怒りで笑いが込み上げてくるように、紅花はその悲しみ故に泣けなかったのだ。

「う、う…ぐす、ひっく、う、ぅ…」

生理的に溢れた涙を皮切りに、その場に崩れ落ちて泣きはじめた紅花。唇を離した五条は、その背を彼女が泣き止むまでさするのだった。

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