幸せだけの檻


ぐずぐずと鼻を啜る紅花の頬を、五条はその大きな手のひらで挟んで、親指で涙を拭った。ようやく泣き止んできたようだ。

「早く傷治せ。さっきから開いてる」

ひくり、と最後に一度しゃくりあげ、頷いた紅花が、残りの傷を反転術式で治す。直後、襲ってくる渇きに喉を鳴らした。鬼の食欲が顔を出したのを見計らって、五条が紅花の顔を自らの首に誘導した。
もう何度も行われた吸血行為だ。紅花の牙が五条の首筋の皮膚を食い破る。皮膚を食い破られる瞬間に痛みは感じるものの、その後は吸うだけ、何も痛いことはない。五条は片腕で彼女を抱きしめて、その背を撫で下ろした。その触れ方はいつものように性的な欲を含んだものではなく、どちらかというと子供をあやすときのそれに近い。
紅花の中にいる鬼が満足するまで、血を啜ったあと、いつものように治療しようと、持ち歩いている救急ポーチを取りに立ち上がる彼女を、五条は制した。「いい、」そう言って紅花の目の前で反転術式を使い、噛み傷を治してみせた五条を、紅花はやはり少し恐ろしく感じた。
紅花を撫でる手も、彼女を気遣うその優しさも、間違いなく今まで見てきた"五条悟"なのに、以前とはどこか違う。紅花には彼がどこか遠くに行ってしまった気がしてならない。

「反転術式、使えるようになったんだね…」
「まぁな。治せんの自分だけだけど」

それでも十分に凄いことである。
反転術式は口で説明するよりもずっと難しい。使えたとしてもできる範囲は各々違い、家入のように他者の治療まで行える使い手は本当に稀だ。紅花の場合、行えるのは自己の治療のみ。五条の<赫>のような使い方はできない。

──なんでもっと早く、使えるようになってくれれば…そうすれば理子ちゃんは、

そこまで考えて、はっとした。自分は今、何を考えた。天内が死んだのは、三人が三人とも甚爾に手も足も出なかった結果だ。決して"五条だけ"のせいではない。

──でも最初から悟が反転術式を習得していれば結果は違ったでしょう?

頭の中で、もう一人の紅花が囁いた。
違う!違う!頭の中で否定の叫びをあげるも、悲しいかな、囁かれた内容は紛れもない事実だった。
こんな事を考えるなんて…。紅花はその場にへたりと座り、手を震わせた。

──私、最低だ。
「紅花?」
「っ、やっ、!」

突然座り込み、様子がおかしい紅花に五条が手を伸ばすが、それは振り払われた。反射的に五条の手を払ったことに、すぐ我に返り「ぁ…ちが…」と、言い淀む紅花に対し、手を払われた五条は思いの外、ショックを受けていた。しかし紅花のこの反応からして、わざとでない。五条は素早く次の対応を弾き出す。

──寝かすか。

この三日で色々起こりすぎた。五条も夏油ももちろん疲れている。だが彼等以上に、目の前で自分と共通点の多かった天内が殺された紅花は、身体以上に精神的にまいっている。少なくとも五条にはそう見える。
そうと決まれば。五条は、先程から無駄に流れるシャワーを止めて、外に置いていたバスタオルで紅花を包んだ。自分の髪を拭くときの様に少し強めの力加減で紅花の髪の水滴を取る。紅花は驚きはしたものの、されるがままである。
拭いてボサボサになった髪を撫で付け、適当に整えたあと、今度は「着替えてこい」と、背を押される。シャワーでぐっしょりと濡れてしまった下着で寝ては風邪を引いてしまう。それに対して、紅花が返事をするより早く、五条が自身の上着とシャツを脱ぎ出した為、紅花は言われた通りに、のろのろと衣装ケースから下着類を出し着替えた。寝巻き用のロングTシャツをワンピースの要領で着たところで、五条が上裸のまま、わしわしと頭を拭きながら出てくる。
五条、彼だって疲れているに違いないのに世話をさせた上、一瞬とはいえ最低な事も考えた。それでも五条は嫌な顔一つしない。夏油、彼だって紅花と同じく辛いはずなのに自分で立っている。紅花だけが、ここで蹲っている。

「ごめ、」
「いいから、今は寝ろ」

「全部後でいいよ。起きるまでずっと居てやるから、寝ろ」

大きな手のひらで紅花の瞼を覆い、いつもより落ち着いたトーンで入ってくる声に、紅花はすぐさま眠りへと誘われた。その早さは、それだけ限界だったことと同じだ。
だがその前に、例え五条にその真意が伝わらなくても、これだけは伝えなくては。紅花の手が五条の制服を緩く握った。

「さとる、ごめんね」
──弱くてごめん。貴方のせいにしてごめん。

「いいよ。おやすみ」

この状況そのまま、"迷惑かけてごめん"の意味で言葉を受け取った五条の染み入るような優しい返事に、紅花は意識を手放した。


/


紅花が目を覚ましたのは寝入ってからちょうど24時間経った頃である。
まず最初に視界に飛び込んできたのは、自分をしっかりと抱き込んで眠る五条の逞しい胸板。紅花の部屋に五条の着れるサイズの服はない。五条は洋服を取りに帰ることもせず、「起きるまで居てやる」の言葉通り、片時も離れず傍に居てくれたのだと、紅花はきゅう、と胸が締め付けられた。
丸一日寝たあとの頭は、寝起きでぼーっとすることを除けば、かなりマシになっていた。天内達が死んだその悲しみと喪失感がなくなった訳ではないが、少なくとも昨日のような悪い思考は巡らない。

「んん、」

五条が身動ぎした。起こしてしまったか。紅花があどけない寝顔を見上げるも、それは杞憂だ。また穏やかな寝息を立て始めた五条に紅花はほっとした。考えてみれば、眠りが深いのも当然である。彼は丸二日以上寝てないのだから。
一度目が覚めたとはいえ、まだ寝れそうだ。紅花は再び目を閉じる。願わくばどうか、悲しみも喪失感も奪って欲しい。

── 恨むなら弱い自分を恨むんだな。この結果はお前等の弱さが招いたもんだ。

頭の一番奥で繰り返される、呪いの言葉を聞こえない振りをして、紅花はただ優しい体温に身を浸した。

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