玉折・花の傷痕


この日、紅花のコンディションは最悪だった──順番に話そう。
この時期、紅花は寝ても非術師の醜悪さと甚爾の嘲りを夢に見るせいで極端に眠りが浅かった。今まで健康的だった目元には隈が浮かび、周りは揃ってそれを指摘した。紅花はそれを適当な理由をつけて誤魔化しては、心配いらないと笑った。男連中が心配する中で、家入だけは「お揃いだね、」なんてその濃い隈を笑った。紅花が夜中に悲鳴をあげて起きたことは一度や二度ではない。今思えば、家入はそういった事にも気付いた上で、何でもない風に振舞ってくれていたのだろう。
慢性的な寝不足に加えて、自らに課す過度な鍛錬は、皮肉なことに彼女の睡眠に一役買っていた。自分を虐め抜いて、ようやく眠ることができる。そういった悪循環が出来上がってしまっていたのだ。

では、本題に戻る。前日に準一級案件と、七海とペアでの二級案件、二つの任務をこなし、鍛錬も行った紅花はそれはもう泥のように疲れていた。いつもならそのくらい動けば朝まで眠れるのだが、この日は運悪く悪夢を見て眠れなかった。もちろん翌朝のコンディションは最悪、強迫観念に追い立てられる紅花に休むなんて選択肢がある筈もなく、彼女はそのまま下された単独の一級案件へと赴いた…という訳である。これは余談だが、この頃紅花は一級への昇級を囁かれていたため、準一級でありながら一級任務にも単独で出向くようになっていた。
赴いた任務で本命の一級呪霊と引き寄せられた二級と三級複数体を無傷で祓った彼女に、底知れぬ恐怖を感じたと、後に補助監督は語る。呪霊の紫やら緑の体液を頭から被り、呪霊を斬り刻む姿。紅血の瞳には殺意だけが乗り、そこには以前のような呪霊を憐れむある種の優しさはない。今の彼女は、正しく鬼と呼ぶにふさわしい。

そうして任務を終え、戻った紅花を五条は出迎えた。
紅花と夏油が請け負う以上の任務を、五条は請け負っていた。その忙しさたるや、任務から任務へ、全国各地、時には海外へ赴いては、呪霊を祓っていた。無論全く高専へ帰って来ていないわけではなかったが、そこは紅花も準一級という立場だ、入れ違いが続いた。
いい加減に丸一日休みを寄越せとゴネにゴネてもぎ取った休み。人づてに紅花の予定も午前中に下った任務のみだと聞き、五条は愛しの彼女と一日を過ごそうと待っていたのだ。

久しぶりに紅花を目にして、五条は一瞬本当に紅花かと目を疑った。周りから紅花がオーバーワークに走っているのは聞き及んでいたし、それについては会えない期間もメールや電話で無理をしないようにとは何度も伝えていた。その度に紅花からは「うん、」「ありがとう」「大丈夫だよ」の返事が返ってきていたので、正直五条も彼女がここまで酷い状態だとは思っていなかったのだ。
五条は酷い顔色の紅花に歩み寄り、腰を折って目線の高さを合わせた。彼女の目元にかかる前髪をその白く長い指で分けて、至近距離で自分とは対照的な紅い瞳を覗き込む。五条は厳しい声音で訊ねた。

「紅花、正直に答えて。ちゃんと寝れてる?」
「……寝れて、ない」
「理由は」
「……言いたくない」
「紅花」
「ごめん、言いたくない」
──お願いだからこれ以上、私を弱くしないで。

嗚呼、ついに五条にバレてしまった──紅花の心とは裏腹に、頭はまるで他人事だ。会わなければ隠し通せると紅花は思っていたし、事実隠し通せていた。しかし、流石に実際目にしてしまえば、見逃してくれる気は無いらしい。当然だ、五条はこれまでどんな
些細な事からも紅花を救いあげていたのだから。
答えない紅花に五条は舌打ちを零した。こんな事ならもっと早く休みをもぎ取れば良かった、と。頑なに言おうとしない紅花に、五条は訊くのを止め、彼女を休ませる方にシフトチェンジする。

「取り敢えず、休め。寝れないなら、眠くなるまで遊びに行くか。その方が少しは気も紛れるだろ」
「! だ、だめ!」

自分を連れ出そうと手首を掴んだ五条の手を強く振り払った。天内が死んだ時に振り払われたのとは訳が違う。あの時は紅花の気が動転していた。しかし、今回のこれは明らかな拒絶だ。
つまるところ、五条も連日の激務にしっかり疲労が溜まっていたのだ。だから、いつもなら気にしないそれも、今回は彼の癇に障った。一瞬でも、面倒だと感じてしまった。だが紅花の様子が可笑しいのは誰の目から見ても明らかだ。例え気が立っていようが、五条にこれを放って置くつもりはない。五条は少しの苛立ちを含ませて、先程より強く紅花の手首を握った。

「お前、いい加減にしろよ。その状態でいられる方が迷惑なんだよ。いいから休め。どうせ焦ったってすぐに強くなれる訳じゃねぇんだから体調管理くらい──「迷惑ならほっといてよ!!」

何も知らない五条が紅花の、地雷を踏み抜いた。瞬間、頭で理解するよりも早く、紅花の頭には一気に血が上り、気付けば感情のまま、五条に怒鳴っていた。

「いいよね、悟は。なんたって"最強"なんだから。守れないものも無ければ、失う怖さも悟には無い」

「そうだよ、弱いよ。すぐに強くなれないよ。だから急いで強くならないと、って…!護らなきゃって、また失っちゃう前にって…ねぇ、悟はこんなことも考えたこと、無いんでしょ?」

「っ…悟には私の気持ちなんて一生分かんない!!お願いだからもうほっといて!!」

劣等感と焦燥感が突き動かすまま、捲し立てた。紅花が後悔しようと、時すでに遅し。静寂を破ったのは、五条だった。

「そーかよ。なら勝手にしろよ」

初めて聞く、ゾッとする程の冷たい声に紅花はびくりと肩を震わせた。吐き捨てて大股でその場を去った五条の背を、呆然と見送りながら紅花はその場にへたり込んだ。
五条はいつでも紅花に優しかった。怒る事もままあったが、それが本気だったことは一度だってない。しかし今、紅花は五条を本気で怒らせてしまった。
そんなつもりではなかった──なんて言い訳だ。今更何を言おうが、紅花が最低な言葉で五条を一方的に傷付けた事実は変わらない。

「ふ、ぅぅ…」

体育座りの要領で膝を抱えてそこに顔を埋める。嗚咽を噛み殺すように、紅花は泣いた。

七海の重傷と、灰原の殉職の知らせが届く前日の事だ。

[title by 失青]

[ TOP ]