花を持つ手で呼んでほしい・弐


いけないいけない。甚爾への嫌悪を加速させている場合ではない。この幼気な少年の荒んだ心を何とかせねば。これは急務である。
紅花は怒りにトリップしかかった思考を頭を振って引き戻した。中身と実年齢のバランスが取れていないその少年と目線を合わすためにしゃがみ、その細い両肩をやんわり掴む。

「め、恵くん。そんなこと言っちゃ駄目だよ。確かに貴方のお父さんの事、私もとっても嫌いだし、何なら穴があくまで爆破してやりたいけど…!」
「紅花、紅花。話ズレてる」
「ちが、ええと、だからその……本当に悲しくない?」

心にそっと染み入るような気遣わしげな声音で、恵を伺う。
ゆらゆらと心配そうに揺れる紅血の瞳。初めて目にするその不思議な輝きに、恵は幼心に見惚れた。

「別に平気」

しかと帰ってきた返事。真っ直ぐに目を見返しての返答に、紅花は「そっか」と苦笑した。人を頼ることに慣れていないがための気を張った返答ならば、泣かせてでも本音を聞くこともやぶさかではないが、彼の中で消化できているのなら何も言うまい。
何せ、一番文句を言いたい相手は既に故人なのでどうしようもない。

「ちょっといつまで握ってんの。妬けるんだけど」
「小学生相手にやめてよ」

恵に寄り添う紅花を、無理やり引き戻した五条が「じゃ、ここからが本題ね」と切り出した。五条は問う──禪院家に行きたいか否か。

「津美紀はどうなる?そこに行けば津美紀は幸せになれるのか?それ次第だ」
「ない。100%ない。それは断言出来る」

禪院家は御三家の中でも特に術式の有無に重きを置く家である。術式を持たない人間がどのような扱いを受けるのか、紅花も直接目にしたことは無いが、正直話に聞くだけでも耐え難い地獄だ。そこで幸せになれるとしたら、相伝を継ぐ恵だけだ。
警戒を強め睨みつけてくる少年に、紅花は癪ではあるが少しだけ甚爾を見た。しかし容姿だけだ。その心根は似ても似つかない。紅花が知らないだけで甚爾も本当は優しい人間だったのかもしれないが、少なくとも彼女の中の伏黒甚爾はそんな人間ではないので、ここでは紅花の主観とさせていただく。ともかく、まず自分ではなく津美紀が幸せになれるかどうかを気にしたのがその証拠だ。
紅花の口角がやんわり上がった。

──優しい、いい子だな。

「オッケー。後は任せなさい」

大男相手に敵意を剥き出しにしてくる少年にくつくつと笑って、五条はその大きな手のひらでまだ小さな頭を撫でた。

「さて、紅花。帰るよ」
「あ!ちょっと待って──恵くん、これ」

忘れるところだったと、もう一度しゃがんだ紅花が一枚のメモ用紙を恵の手のひらに握らせる。「開けてみて」紅花の優しい声に促され、恵はその場でメモ用紙を広げた。
そこには少し癖のある字で、11桁の数字が並んでいる。電話番号だ、恵は言われずともその数字の羅列が目の前の女の携帯番号だと直ぐに理解した。

「なにかあったら電話してね。子供二人じゃ危ないから」

「こう見えて私結構強いから、危ない人も倒せるよ」茶目っぽく歯を見せて笑う紅花に、恵は一体何を想定してのその発言なのか気になったが、口にすれば長くなりそうなので言うのは止めておいた。

「二人とも悪いようにはしないから──また来るね。今度は津美紀ちゃんにも挨拶させてね」

時にはゆらゆらと不安に揺れ、また時には期待に輝き、時には強い意志を宿す。その紅(あか)は忙しない。
「アンタ名前は?」思わず口をついて出た言葉に我に返った恵は、慌てて口を塞いだ。その仕草に、やっと子供らしさを見つけ、嬉しくなった紅花は微笑んだ。

「鳥居紅花です。次来るときは呼んでね?」

「紅花、早く」
「分かったって!じゃ、恵くん。またね!」

ヒラヒラと手を振り、歩いて行ってしまった紅花を、恵は手を振り返す間もなく見送った。彼女へ繋がる唯一の手段を握りしめたまま、少年の脳裏には紅血が色鮮やかに焼き付いていた。


/


「──"強くなってよ。僕に置いていかれないくらい"」
「………」

去り際に少年に向けて置いてきた最後の言葉を復唱する彼女に、五条は黙った。聞かれていたのか──いや、別に聞かれて困る内容でも無いのだが。しかし、どことなく気まずい。
あの言葉の裏にどれ程の後悔と切望が混じっているのか。傍には居られても、五条と同じステージには上れない、本当の意味では隣に立てない紅花には理解しきれない。彼は…五条悟の本質とは、寂しい人だ。

──私はまだ、振り返れば見える位置にいられてるんだろうか。
「なーに考えてんの」

あっさりと見透かした五条が、紅花の額を指で弾く。「いたっ」反射的に声を上げて、弾かれた額をさする紅花に五条は再度問うた。

「で?何考えてたの」
「うん。恵くんが悟に追いついてくれたらいいな、って」

「お前もでしょ?」

怪訝な表情で返してきた五条に、紅花はキョトンとした。
夏油がいなくなった時、紅花は五条に言った。"悟はこれからも色んなものを置いていく"と。置いていくものの中には紅花も含まれる。五条悟とその他大勢の間には絶対に埋まることの無い溝が存在するのだ。五条は口にしなかったが、内心では薄情だと思われただろう。あの日伝えた本音は、ある意味隣に立つのを諦めた言葉なのだから。それでも、この先何度も直面する真実に、いちいち傷つかないためには必要な自覚だったと、紅花は考える。

「紅花はさ、追いつけない離されるって言ったし、それは多分間違いじゃないけど」

「俺は、お前だって待ってるよ」
──そうか、彼は待ってくれているのか。
「そっか…そっかぁ、恵くんに負けないように頑張る」

海より空より美しい蒼穹の瞳が、紅花の世界を蒼く染めた。新緑の眩しい、初夏のことだった。


[title by 失青]

[ TOP ]