終着は近い


乙骨との対面を果たし、一年生に稽古をつけた日から三ヶ月。
都内の廃ビル、そこに湧き出た呪霊を祓うことが今回の任務内容だ。一級の紅花には比較的簡単な内容である。今しがた祓った呪霊がボロボロと崩れていくのを横目に、紅花は軽快なメロディを奏でる携帯端末を耳に当てた。

「はい、鳥居です」


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伊地知の急な要請に紅花はひた走る。
狗巻に下された商店街の呪霊を祓う任務。狗巻の術式と等級を考えれば苦戦する任務でもなかったため、乙骨を見学として同行させた。しかしそこで予定外のトラブルが発生した。伊地知が下ろした帳の上から重ねて下ろされた帳。
普通、補助監督が下ろす帳は非術師に配慮した結界である。当然その術式効果に外部との接触を断つ効果は含まれていない。しかし、今回重ねて下ろされた帳は、明らかに乙骨・狗巻を外部から分断する意図をもって下ろされたものだった。伊地知は高専の卒業生で多少心得もあるが、帳を破れるだけの力は持っていない。中で何が起こっているか分からない、生徒達を害する目的があるのなら早急に結界を破らなければならない。特に乙骨、どんな理由であろうと彼が里香を出せば五条と二人して処分は免れない──何より、今中に閉じ込められている二人の身が危ない。
伊地知はすぐさまこの旨を高専へと連絡し、都内で任務に当たっていた術師の中から紅花に救援を要請した。彼女がたまたま都内での任に当たっていたことは不幸中の幸いであった。

「伊地知君!」
「紅花さん!」

息を切らせて現れた、女一級術師に伊地知は心底安堵した。かつて実在した鬼の先祖返りである彼女は、その身に宿す呪力の総量は五条悟に勝るとも劣らない。彼女に破れない結界ならば、誰がやっても破れない。

「う、そ…この帳…」
「紅花さん?どうしました?」

紅花のコーラルピンクに彩られた唇が戦慄いた。心なしか指先も震えている。
酷く動揺した様子に、伊地知が怪訝な表情で呼びかける。その声に我に返り、次にはきゅっと唇を引き結んだ紅花が、毅然とした佇まいで薙刀を回した。

「閉じ込められてどれくらい経ちましたか?」
「20分というところです」
「急がなきゃ…伊地知君、生徒達が怪我してた時のために、一応硝子に連絡と車を近くまで回してきて下さい。あと、ちょっと派手にいくので…修理費、経費で落としてください」
「か、かしこまりました!」

紅花から溢れ出る呪力に伊地知は、背筋を凍らせた。普段の彼女からは考えられないほどに重く禍々しいそれは何度体感しても慣れない。
伊地知が駆けていくのを見送り、紅花は薙刀を構える。本当なら経費はできるなら控えた方がいいのだが、今回は生徒達の命がかかっている。なりふり構ってはいられない、本気で破らせてもらうとしよう。極限まで呪力の出力を引き上げ、呪爆の威力を上げる。紅花はそれを斬撃にして飛ばし、着弾と同時に指を鳴らして爆破させる。凄まじい威力のそれは、周囲も巻き込みガラスが割れるような音を立てて、帳に穴を空けた。
空いた穴から崩れていく夜の闇に、乙骨と狗巻を探そうと駆け出そうとした時、懐かしい声が紅花の耳朶を打った。

「や、紅花。強くなったね、見違えたよ」
「!!」

──呪術と呪術師は非術師の為にある。

忘れるはずも、忘れられるはずも無いのだ。優しげでたまに少し胡散臭く響くその声を。水のように紅花の心に染み入るその声を。10年前と何一つ変わらないテノールに紅花は反射的に振り返る。

「──ぁ、」

そこには寂れた商店街があるだけだ。
しかしこれで確定だ。いや、帳に残る残穢で既に疑う余地もないのだが。

「傑……」

呟いた声は、誰にも拾われることは無かった。


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人気のない高専の廊下にて、重々しい雰囲気を纏う三者。五条が声音低めに口を開く。

「で、間違いないの?」
「間違うはずないでしょ、残穢も…声も」

答えた紅花の声音もまた重い。暗に直接言葉を交わした事を告げる紅花の旋毛を五条はたっぷり5秒見つめた。

「…後で詳しく聞くよ。伊地知、報告」
「はい。何者かが私の帳の上から二重に帳を下ろしていました。加えて予定にない準一級レベルの呪いの発生──全ては私の不徳の致す所、何なりと処分を」
「いやいい。生徒達は自力で祓って無事だし、お前の紅花を呼んだ判断も正解だよ。それに、相手が悪すぎた」
「……と、申しますと。犯人に心当たりが?」

普段伊地知に無理・無茶・理不尽を押し付ける五条も、夏油が絡んでいるとなれば彼を叱ることは出来なかった。
真摯に頭を下げる伊地知の横では、紅花が顔を伏せている。俯いているせいでその表情は五条から見えないが、その手は白くなるほどキツく握られていた。無理もない。離別してから10年、その間一切の痕跡も残さなかった人間が、今になって接触してきたのだから。次に会うときは呪い合い、どちらが死ぬときだと覚悟を決めていたとしても、それまでに共に過ごした三年がある。あの青春を、彼等は思い出さずにはいられない。

「夏油傑、4人の特級が一人。百を超える一般人を呪殺して呪術高専を追放された、最悪の呪詛師だよ」

しかし、現実とは哀しきかな。
幕引きは既に始まっている──。

夏油の接触があったとの夜蛾への報告は自分が請け負うことを告げ、五条は伊地知を下がらせた。俯いたままの紅花の、10年前から変わらない艶やかな黒髪を指で梳く。ぴくり、と紅花が動いた。「話したの?」夏油とは違うテノールが紅花の耳朶を打つ。

「正しくは"話しかけられた"かな。姿も見てない、ほんとに一瞬だったから」
「会うの怖い?」
「どうだろ…。ちょっと急すぎてまだピンときてないのかも──でも、背を向けるつもりは無いよ」

10年前、二人はいつか立ちはだかるだろう夏油を止めることを誓った。もちろんそこに嘘はないし、決して軽い気持ちでもない。だが、それに想像を絶する悲しみが伴うことも、また事実だ。五条はそんな思いは自分だけでいいと思う。だから、彼女が一言"怖い"と口にしたのなら、この件からは外そうと思っていたのだ。例えそれで紅花に恨まれることになろうと、構わないと思った。
しかし、それは要らぬお節介だったと五条は思い直した。10年経とうが、紅花はその清廉さを失わない。

「傑は殺す──それが約束だから」

憧れも後悔も、捨てたりしない。
彼女は今も10年前の約束を抱えて生きている。

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