憧れは初恋に似る


「硝子、ちょっと飲みに行かない?」

形のいい柳眉をハの字にしての最早親友とも呼べる級友の誘いに、たった今呪霊の解剖を終え、紫やら緑の体液で汚れたニトリル製のゴム手袋を脱ぎながら、家入硝子は珍しいな、と内心ごちた。

突然だが家入は酒に関しては呪術界最強である。次点で七海と、読んで字の如し──"酒呑"童子の紅花である。だが酒の強さに反して、紅花はそこまで酒好きという訳でもない。その理由は、恋人である五条が極度のアルコール虚弱体質、すなわち下戸という点にある。恋人が飲まないのに、では自分は──とはならないだろう。
ちなみに五条本人は自分を差し置いて酒を飲むことに関しては全く気にしていない。寧ろ「僕に気を使わず飲んでいいんだよ?」との事であるが、飲んだところで酔える訳でもない、家入のように酒を好んでいる訳でもない紅花は、そういう席でもない限り口に入れることは無い。気を使っているわけではない、本当にいらないのである。では話を戻そう。

そんな彼女が、誰かを飲みに誘う事は本当に稀で、大抵そこには理由がある。

──まぁ聞かなくても分かるがな。

夏油傑の接触については家入も既に聞き及んでいた。それ関係だということは想像に難くない。

「いいぞ。美味しい日本酒出す店があるんだ、行こうか」

家入はキャスター付きの椅子の背に簡単に畳んだ白衣を掛け、上着を羽織った。


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家入に連れられて入った店は個人経営の居酒屋だった。席数はボックスとカウンター合わせても10席程度しかない隠れ家的な店で、オリエンタルな内装とバーカウンター方式に壁の棚に飾られたお酒たちがお洒落な雰囲気を醸し出している。
お酒の種類も洋酒から和酒まで幅広い。なるほどこれは確かにいい店だ。紅花はジャケットと鞄を横に置きながら思った。

「何食べる?」
「まずはビールだろ」
「あ、私も…」

生ビールといくつかシェアして食べるものを頼む。最初に運ばれてきたビールのジョッキを待ってましたと手に持ち、互いに軽くぶつけた。
きめ細かい泡の乗る、黄金色の液体を喉に流し込む。上司にイッキを振られるサラリーマンの如き飲みっぷりに、家入は「最初っから飛ばすねぇ」と肘をついた。

「紅花。この洋酒、軟骨に合うよ」
「え、洋酒?」
「うん、洋酒」
「へぇ〜…」

「それで、悟ったら健人君に嫉妬して──あ、すみませーん、宮城峡ロックで、」
「あ、私も同じもので」
「かしこまりました!」

飲み、話し、また飲む。そうしてどのくらいの時間が経っただろうか、紅花は完璧に出来上がっていた。
「ねぇ、硝子…」テーブルに突っ伏して顔を上げない紅花が、酒焼けした声で細く呼ぶ。

「傑は約束を覚えてくれてるかな…」
──いつか傑が目指した呪術師になって、傑を殺しに行くよ。

酔いが回った頭で疑問ばかりを繰り返す。夏油のみぞ知るその答えは、家入に聞いたところで分かるはずもない。それでも、気休めでもいいから紅花は誰かにイエスと答えて欲しかった。

「さぁな」
「ガッカリ、しないかな…」
「さぁな、」

「私は…傑の事、殺せるのかな、」
「お前は、どう思うんだ?」

初めて家入が聞き返した。机に伏せていた顔を上げて、家入を写す。普段揺らぐことの無い紅血の瞳はゆらゆらと不安げに揺れていた。紅花が手のひらで額を押さえる。

「ころせる、よ。うん、殺せる」

かつて共に笑い合った夏油を捨てたくなかった。そして、大切な友人を救えなかった業を五条たった一人に背負わせたくもなかった。あの覚悟に嘘はない。
けれど、本当は──。

「硝子…わたしね、─────。」

紡がれた言葉に、家入は目を伏せた。

「……そうだな」


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深夜12時を回った頃、本日消化分の任務を終えた五条は嬉々として帰路に着いた。
紅花から家入と飲みに行くので帰りが遅くなると連絡があったのが数時間前。この時間なら自分の帰宅の方が早い、たまには先に帰って紅花を出迎えてやろう、と五条の口元は笑んでいた。
そんな彼に水を差すようにポケットで震える携帯に、五条はもし任務だったら伊地知マジビンタと理不尽極まりない仕置きを考えながら端末を取り出した。
表示される文字は"家入硝子"、本人の知らぬところで伊地知はビンタを免れた。五条は通話ボタンをタップして耳に当てた。

「もしもし?硝子どったの?」
「紅花が潰れた。迎えに来い」

端的にして明確な要求だった。五条は「ありゃ、潰れちゃったの?珍しいね。いーよ、何処?」と通話をスピーカーにして地図アプリを連動させた。
店の名前と場所を聞き、大体の道順を確認して通話を終える。静かになった携帯をポケットに突っ込み、五条は愛しい女を迎えに夜の街を歩いた。

家入から指定のあった店はすぐに見つけることが出来た。居酒屋にしては小洒落た外観とこじんまりした店構えは大層女性ウケが良さそうである。小さい店だ、二人の姿はすぐに見つけることが出来た。
「紅花〜、迎えに来たよ」の「た」まで言って、五条は一時停止した。

「え?これ、何」
「言っただろ、潰れてるって」
「いや、僕が言いたいのはそっちじゃなくて、」

包帯ごしの視線の先には、空になった銘酒"鬼殺し"の一升瓶を抱いてすうすうと寝息を立てる紅花がいた。

──いや、"鬼殺し"って…いかにも過ぎて最早ネタなんだけど。

銘酒"鬼殺し"──アルコール度数40パーセント、某地方名産の美味だが悪酔いが凄いと評判の蒸留酒である。その癖の強さから命名したのだろうが、思わぬ所で裏付けが取れてしまった。その銘の通り鬼も潰せるらしい、恐ろしい酒である。
そんな身内にしか分からない呪術界珍百景の横で平然とウィスキーをロックで煽る家入に五条は呆れを通り越して感心した。紅花を潰しただけでも相当に飲んでいるというのに、お前まだ飲むの?と。

「まぁいいや。とにかく連れて帰るよ」
「あぁ」
「金は僕が持つよ。紅花が誘ったんだろ?」
「例に漏れず、な」

五条は黙った。彼もまた紅花が酒に頼る日は、そこに理由があることを理解していた。くったりと力の抜けた身体をおぶる。全く起きる気配のない紅花は、赤い顔で変わらず健やかな寝息を立てている。そこには普段の清廉な姿はない。五条は自分の肩に乗る可愛い頭、その米神にキスをした──少々、酒臭かったが。

家入はもう一杯だけ飲んでいくそうで、その分のお金も渡して店を出る。日中も大分涼しい時期である、深夜ともなると冷え込むのは当然。ひんやりとした夜の空気に当たりながら、五条はようやく本来の目的である帰路に着いた。

夏油がいなくなってから、紅花は大切な所で五条に縋ることを止めた。五条にとってそれは寂しくもあったが、そこには彼と並び立つための覚悟が──五条に守られるだけの存在には決してならない──という思いがあったから、彼はその気持ちを尊重したのだ。
そのかわりにという訳ではないが、紅花はやるせない事があればこうして酒を頼ることが増えた。そうしてそれに付き合うのは毎回違わず家入である。
紅花は今も昔も五条には救わせてくれない。五条は彼女のことが心底愛おしいが、少しだけ恨めしい。

「ほんっと、お前は変わんないね」

背中に感じる柔らかさと温もりに語りかけるも、答えは無かった。

──硝子、紅花なんか言ってた?傑のこと。
──約束まだ覚えてるかな、ガッカリされないかな、だってさ。
──久しぶりに会う初恋の人かよ…それだけ?
──……あぁ、それだけだよ。


"──硝子、私ね…本当はずっとこの日が来なければいいとおもってたんだぁ…。"

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