心だけが追いつけない


誰にも言った事はないけれど、たまに夢に見る。
本当は全て悪い夢で、朝起きれば悟が抱き締めてくれて、高専に行けば傑が手を振って、その横には徹夜明けで眠そうな硝子がいる。
悟と傑は未来の呪術界を担う聡い生徒達に囲まれて楽しそうで、私と硝子はそれを少し離れて眺める。

まるで青春の続きみたいな。
そんな都合のいい夢を、私はもう何回見たか覚えていない。


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"鬼殺し"で潰れた翌日、私は悟と住む自宅のベットで目を覚まし、やってしまったと二日酔いの頭を抱えた。自己嫌悪に苛まれる私とは真逆に悟は全く気にしておらず、深い理由も聞かず、それどころか「味噌汁飲む?」なんて気遣う言葉が出てくるものだから本当に私は愛されている。
そんな惚気はさておき、商店街の一件以来、傑からの接触はない。私にはそれがまるで嵐の前の静けさのように思えてならない。そしてその不安は悟と夜蛾学長も感じていた。

「来たる12月24日!日没と同時に!我々は百鬼夜行を行う!」

傑の動向も掴めぬまま、12月を迎えそこでようやく私達の勘は正しかったと知る。白昼堂々、呪詛師の仲間を引き連れて高専に降り立った傑が高らかに宣言する。

「場所は呪いの坩堝、東京 新宿!呪術の聖地、京都!各地に千の呪いを放つ。下す命令はもちろん"鏖殺"だ」

そんなことをすれば、街は大混乱だ──否、大混乱ですめば御の字、たくさんの人が死ぬことになる。聖夜に似合わぬ惨劇を想像し、ゾッとした。

「地獄絵図を描きたくなければ、死力を尽くして止めにこい──思う存分、呪い合おうじゃないか」

かくして、私達の10年に至る物語の、
最後の幕は上がるのだ。


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12月23日、百鬼夜行前日。
わざわざ宣戦布告に来てくれたおかげで備える時間は十分にあった。高専側の勝利は揺るぎない。
リビングの広いソファで紅花は何も無い天井を仰いでいた。
気負いはない。悲しくもない。ただ、淡々と時間が過ぎる。遂にこの時が来た、それだけだ。終わりへのカウントダウンはもう始まっている。

「はい」
「ありがとう」

ココアを両手に戻ってきた五条から片方を受け取り、口をつける。じんわりとした甘さが口内に広がった。
マグカップを両手で包んで持ち、ソファに深く腰掛ける。甘さと同じくじんわりと手のひらを温める温度に、紅花はほっと息を吐いた。

「紅花、」
「ん──んぅ!?」

隙間を作らず横に腰掛けソファの背もたれに腕を回していた五条が、上がった紅花の顔に口付ける。零してしまわないように、するりとマグカップを奪い取り、自分のと一緒にローテーブルに置いた。その間も口同士は触れ合ったままで、五条の舌が紅花の唇をノックする。

「ふ、……ぁ、」
「かぁーわい」

とろりとした眼差しで吐息を漏らす紅花に五条は語尾にハートでも付きそうな甘ったるい声で、更に深く。徐々に覆い被さる体勢になり、とうとう紅花はソファへと押し倒された。

「悟、今日は…」
「いや?」
「いや、じゃないけど…」

──明日、私達は傑を殺すことになるかもしれないのに。

ぐ、と押し黙る。例え可能性の話でも言葉として出したくはなかった。覚悟はできている、土壇場になって"やっぱり無理"だなんて言うつもりもない。"傑の目指した呪術師になり、傑を殺しに行く"夏油──それが彼と最後に交わした約束だ。ここだけは誰がなんと言おうと違えるつもりは無い。
だがそれに心が追いついているかと問われれば、紅花は自信を持って是とは言えない。今だって、口に出してしまったらきっと泣いてしまう。それ程までに、あの日々は色濃く、未だ夢に見るほど鮮明に蘇る。

「辛いなら行かなくてもいい」
「な、「──って言ってあげたいけど、それはできない」

「まずお前程の術師を今回の戦いに参加させないのは戦略的にありえない。領域まで使える術師は、今のところ僕と紅花だけだからね」
「…………」
「──でもそれは建前。本当は僕がお前にも一緒に堕ちて欲しいだけだよ」

紅花の気持ち、何もかもを無視した傲慢な言い分に思わず笑いが出た。互いにそれを望んだとはいえ、である。

「ははっ、……ひっどい理由…」
「何とでも言えよ。僕はお前を道連れにしたって、恨まれたって、離してやれない」
「ん、」

ちゅ、と首筋に唇が這う。厚手の寝巻きの中には大きな手のひらが侵入しており、紅花の下腹部、丁度子宮がある当たりをいやらしくなぞった。

「ぁ、!ちょっと、まだするとは…ひ、あ!」
「その割にしっかり濡れてるけど?」

くちゅり、と入口を撫でる指。愛液をわざと掬い取り、紅花に見せつける。蛍光灯に反射して、てらてらと光る指を舐め取る、その表情の扇情的なことといったら!

「明日は──」
「だからだよ」

はむ、と五条が紅花の耳朶を食んだ。

「埋め合わないと受け止められない事だってあるんだ」
──あぁ、彼も同じ思いを抱えているんだ。

遠回しな本音だった。不器用なそれにきゅう、と心臓が鳴った。と同時に、自分たちはなんて愚かしいんだろうとも思った。
明日親友を、憧れの人を殺すその喪失感を彼等は肉欲で埋めるのだ。なんて愚かで、人間らしいのか。

「ベッドにして…、」

紅花の遠回しなOKサインに、五条は下手くそな笑顔で笑って彼女を抱き上げた。


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東京、新宿のコンクリートジャングルの隙間を埋め尽くす数多の呪いに、紅花は薙刀を強く握った。

──おかしい。

えも言われぬ現場の違和感に呪霊を睨む紅花の視線が鋭くなった。つんつん、とジャケットの袖を引かれ、振り返る。狗巻だ。相当怖い顔をしていたのか、頬をつんつんと突き、元気よく「おかか!」。

「ごめん、棘達の方が何倍も緊張してるのにね」
「しゃけ!」

「パンダ!棘!」

五条の鋭い声が二人を呼んだ。返事をする前にパンダと狗巻を掴み、開けた場所に立たせてその周りに陣を描く。

「今から二人を高専に送る!夏油は今高専にいる。絶対多分間違いない!」

紅花の紅血の瞳が見開かれる。皆まで言われずとも、彼女には分かった。
勝算のない戦いをこのタイミングで夏油が仕掛けた理由。前線に出てこない理由。今まで点だったものが全て繋がった。

「勘が当たれば最悪、憂太、真希二人共死ぬ!二人を守れ!悪いが死守だ!」

この大規模な百鬼夜行、これ自体が本命に目を向けさせないための囮だ。夏油の大本命──乙骨憂太殺害の後、特級過呪怨霊・祈本里香の奪取。その為に呪術テロ計画を事前に晒し、当日の高専の警備を手薄に、乙骨を孤立させた。
里香さえ奪取すれば、高専側の勝率8割もひっくり返る、そこまで見越しての計画。

狗巻とパンダを送った事で、狙いに気付いた事に気付かれたようだ。動き始めた数多の呪霊と呪詛師──百鬼夜行の開戦に紅花は薙刀を構えた。

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