夜明けの晩に


H市から高速道路に乗り、車を走らせること数時間。例のB山に着いた真下たちは、車を山の麓にあった駐車場に停めた。駐車場、とは言っても半ば空き地のような状態である。車から降りると、目の前には『B山 入山口』の看板が立ててあった。どうやら、ここには登山客がよく来るようだ。

「……こんな人の出入りがありそうな場所に、自殺の名所なんてあるんですか?」

疑わずにはいられない茂上。だが、時間は深夜ということもあってか、当たり前のように人影は彼ら以外に存在せず、暗闇のなかで鬱蒼とした木々が思わぬ来訪者にざわついているばかりだ。この光景だけを見れば、自殺の名所という曰くも幾分かは納得できるだろう。

「八敷、貴様はここに来たことがあるか?」
「…………いや、ないはずだ」

『はず』と言ったのは、八敷自身、確証を持てないからだ。半年前の騒動で記憶を一度失い、また取り戻してからも、八敷は未だに自分が地に足をつけて歩いているという自覚が薄いままでいた。
もしかしたら、まだ何か忘れていることがあるかもしれない。そう思って辺りを見回すが、やはりこのB山には見慣れがない。どうやら本当に初めて来た場所だと考えた方がよさそうだ。
一方、真下は「そうか」とだけ答えると、茂上をちらりと見る。
今は9月の初頭。季節の変わり目でもあるせいか、B山に足を踏み入れた途端に肌寒い風が山上から吹いているのだが、少し薄手な格好のままで外を出てきた茂上は「コート、持ってくればよかった……」と両腕を摩っている。
すると、茂上の顔に突然何かが放り投げられた。視界が真っ暗になり、パニックになった茂上は「うわっ!?」と素っ頓狂な声を上げて後ろにふらふらともつれる。慌てて顔面に降ってきたソレを掴むと、ほんのりと温もりのある、見慣れたオリーブ色のコートだった。

「そんな格好してくるからだ」
「……でも、真下さん寒いんじゃ……」
「いいから着ておけ」

真下が一度言えば聞かない男だということを、後輩である茂上は誰よりも知っていた。だから「ありがとうございます」と礼を述べて、ここは有難く羽織らせてもらうことにする。コートを羽織ると、ほんのりと真下の吸う煙草の匂いが彼女の鼻腔をつく。コートの袖や肩周りがあまりすぎているが、その辺りは気にしない方が懸命だろう。
そんな二人のやり取りを見届けると、八敷は懐中電灯を鞄から取り出した。真っ暗だった山の中が電気にぼうっと照らされると、より気味悪く感じるのは人間の性だろうか。

一行は、まず看板の立てられている入山口から入り、一般の往来があると見られる登山道に沿って歩くことにする。
だが、もちろんのこと、行方不明者がそのような人目につきやすい場所にいるわけがない。もし登山道の半ばで倒れていたりしたら、とっくの昔に茂上の妹は見つかっているはずだ。
つまり、ここから先は人の通らない薮の中を歩いていく必要がある。すると、一番後ろを歩いている真下が「おい」と二人を止めた。

「どうした?」
「……誰か、ついてきているぞ」

その言葉に、茂上と八敷は思わず身体を強ばらせた。振り返って真下の背後を確認しても、もちろん誰もいない。当たり前だ、入山口近辺では三人以外に人一人見かけなかったのだから。

「ま、真下さん……怖がらせるのも大概にしてくださいよ……」

冗談めかして言う茂上だが、その口元は笑うどころか引き攣っている。
ここだけの話、茂上は心霊や怪奇現象といった類に全く耐性がない。警察官として経験を積んできたため、それなりの緊急事態や事件に対処できる力を持っているものの、この世のものでない力にはその限りではないのだ。
怪奇現象なんてものを信じていない人間ほど、目の当たりにするとどうしていいか分からなくなる。それは八敷や真下もよく分かっている事だった。
八敷は、もう一度真下の背後に懐中電灯を当てて光を照らす。すると、僅かだが彼らの真横にある薮がガサッと揺れる音がした。

「おいっ!」

それを見た真下が、自前の拳銃を持って咄嗟に薮に近づいた。茂上が「あっ、銃刀法違反!」と場にそぐわないツッコミをする横で、八敷が真下を止めようとするが、真下は聞く耳を持たない。もし銃でも敵わないナニカがそこにいれば、やられるのは真下の方だというのに。

「きゃあっ!」

だが、予想に反して藪の中からは女性の甲高い声が聞こえた。しかも、それは八敷と真下の二人にとっては聞いたことのある声で。別の意味で嫌な予感のした八敷が「まさか……萌か?」と尋ねると、藪の中から一人の女子高生が姿を現した。

「あっちゃー……バレちゃった……」

苦い表情で出てきたのは、渡辺萌という少女だった。八敷と真下は、彼女と『花彦くん』の件で知り合ったが、もちろん茂上は彼女のことを知らない。

「や、八敷さん……この子、誰ですか?」
「渡辺萌だ。女子高生だが、今はオカルト雑誌『月刊オーパーツ』でアルバイトをしている……だったな?」
「はい!以降お見知り置きを」

いつにもなく畏まった口調で答える萌だが、首から下げたカメラを持って茂上に詰め寄ると「ところで、茂上さんって刑事なんですか?」と目を輝かせる。

「刑事……ではないかな。まだ私は巡査だから」
「へー。じゃあ、真下さんの方が先輩なんですね?」
「おい……何だその変なものを期待するような目は。あと、そもそも貴様はどうしてここにいる」

にやついた顔で茂上と真下を見比べる萌は、真下の不機嫌そうな声を聞くと途端に茂上の後ろに隠れる。

「実は、特ダネがないかと思って九条館に忍び込んでました。おじさんと真下さんの話、いつも編集長にウケがいいから」
「……俺たちの話を盗み聞きしていたのか」
「そんな人聞きの悪い言い方しないでくださいよー。スクープは体はらないと撮れないんですから」

そう朗らかに答える萌だが、そもそも彼女と知り合ったきっかけも、萌がその好奇心から危ない怪異に首を突っ込んだことが始まりである。だが、彼女の辞書に『懲りる』という言葉はないのか、今回も真下たちの話を聞いて興味本位で着いてきてしまったようだ。
案の定、茂上はそんな萌にたじたじだったが、ふと疑問に思って尋ねる。

「でも……九条館からここまで車で移動してきたのに、一体どうやって着いてきてたの?」
「車のトランクにこっそり忍び込んでました。あそこ、わたしぐらいの女の子なら余裕で入るんですよね」

何とも驚きの答えだ。だが、これで三人の間に走っていた緊張もようやくほぐれ始める。どうやら霊的なものの仕業ではなかったらしい。
今すぐにでも萌を帰したいところだったが、今は一人で行動させる方が危ないだろう。八敷は萌も連れていくことに決めると、今来た道の続きを歩こうとして、はたと気づく。
今しがた萌が姿を現した藪の中に、薄らと線の細い道が見えた。思わずそちらを懐中電灯で照らしてみると、寂れた看板が目につく。
『立チ入リ禁止』と手書きのペンキで書かれたその看板は、トタン製で大きく腐食しており、その様子からだいぶ昔のものであることは違いない。

「……えっ、八敷さん、まさかそっちの道に行くんですか?」

八敷の目線に気づいた茂上が、不安そうな声をあげる。八敷は行くか行かまいか悩んだが、このまま登山道を歩いていても何ら手がかりは得られないだろうと踏み、思い切って脇道に逸れることにした。
けもの道、にしては少し様子がおかしい。細い道は薮に囲まれ歩きにくいことこの上なかったが、少し歩くごとにあの『立チ入リ禁止』と書かれた看板がいくつも立ててあった。道中には誰かが捨てたゴミがちらほらと散見している。

「雰囲気ありますねえ」と呟く萌はどこか楽しそうだが、茂上に至っては言葉を発することを忘れ、頻りにキョロキョロと辺りを見回しては羽織っている真下のコートの裾をぎゅっと握りしめている。一方、真下はそんな茂上を見て「情けないぞ」と揶揄するが、茂上が「仕方ないじゃないですか!」と言い返す度、彼女の恐怖は少しだけ和らいでいるようだった。

そんな折、先頭を歩いていた八敷が突然足を止める。萌が「おじさん、どうしたの?」と聞くと、八敷はこんなことを言い出した。

「何か……焦げ臭い匂いがしないか?」

その言葉に吊られて、三人とも鼻をきかせてみた。
確かにする。ほんのりと焦げ臭い……何かが焼けているような匂いだ。その匂いは徐々に濃くなっていき、胸いっぱいに煙が充満していくような息苦しさに、八敷は思わずふらふらとよろめいた。

「おい、八敷!」

だが、八敷以外の三人は何ともないようだ。真下がふらついた八敷の手を取ろうとすると、その時八敷が足元の何かに躓いて思わず地面に転んでしまう。
ぐにっ、という嫌な感触だった。バランスを崩した八敷は、急いでその躓いたものに光を当てるが、その光景に真っ先に声をあげたのは、八敷ではなく茂上だった。

「ど、どうして……!」

夜の光に照らされて、青白い肌が輪郭を無くしぼんやりと浮かび上がる。倒れていたのは、他でもない茂上の妹本人だった。