おちゃらかほい
夜風の涼しい風に乗り、生暖かい熱気が森の中にむわりと広がる。茂上は既に事切れていた妹の遺体を見て、思わず膝から崩れ落ちた。
「そ、そんな……」
声を失った茂上は、両手で口を押さえると嘔吐きたい衝動を必死に堪えているようだった。
妹が失踪してから、約半年。茂上は頭の中に過ぎる最悪の考えを常に払いながら、今まで一縷の望みをかけて必死に妹を探してきたのだ。それなのに、蓋を開けてみたら事態は最悪の一途を辿っていたとは、何て惨い仕打ちだろう。
だが、八敷が彼女を宥めようと声をかける一方で、真下は二人の様子を気にもとめずに遺体を確認し始める。非情だと思われる行動かもしれないが、こんな時こそ冷静に状況を把握するべきだと真下は考えていた。
「茂上」
「……う、う……」
「茂上。しっかりしろ」
遺体は酷く損壊していた。まるで獣に食い荒らされたように、服も肉も全てが目も当てられないほどぐちゃぐちゃになっている。血なまぐさい臭いが辺り一帯に立ち込め、一行の胸をつく。
真下は八敷の懐中電灯で遺体を丹念に調べながら、茂上に呼びかける。だが、彼女は正気を失ってしまったように呻くだけで、一歩、また一歩と後ずさった。
「いい加減にしろ。貴様、それでも警官か。ホトケさんぐらい、貴様も何度も見てきただろうが」
「おい、真下。彼女にもう少し……」
「貴様は黙っていろ、八敷」
真下は苛立った様子で茂上に向き直ると、彼女の腕を強く掴む。「来い」と言われ、無理やり妹の遺体の前に引き摺られてきた茂上は、泣きそうな声で小さく妹の名前を呼ぶが、もちろん返事は返ってくるはずもない。
「どうして……こんなことに……」
「貴様。これを見て何か気づくことはないのか?」
「え?」
普通ならば、山中でこのように無惨な死に方をするとすれば、熊か何かに襲われたと考えるのが妥当だろう。
だが、今回ばかりはそうでもなさそうだ。それは八敷もすでに気づいていることで、茂上だけが困惑した目でもう一度妹の遺体をまじまじと眺める。
ぐちゃぐちゃに損壊した死体。だが、奇妙なことに……なぜか、死体の臓器だけは綺麗なままで残っている。まるで外側の肉だけ破り取られたような跡に、真下は心底嫌そうに舌打ちをした。
「獣なら、こんな悪趣味なことはしないだろうな。それに……おい、もう一つ気がかりなことがある」
「気がかり……?」
「この遺体には、心臓がない」
真下に言われ、茂上はハッと目を見開く。
確かに、ない。他の臓器は綺麗に無傷であるにも関わらず、心臓だけが忽然と消えているのだ。すると、隣で遺体の隅々まで観察していた真下がある一点に目をとめ、途端に息を呑んだ。
「……八敷。おい、八敷っ!」
先程までの冷静な声色とはうってかわり、切羽詰まった声だった。流石の八敷もどうしたことかと真下に呼ばれるがまま遺体に近づく。そして、真下が無言で指差す先を見て思わず絶句した。
「……シルシが……!」
茂上の妹の首。そこには、例のシルシがくっきりと刻まれていたのだ。
今から半年ほど前、全ての元凶となり全ての因果の収束点となった怪異に、八敷は立ち向かった。その怪異が、人間の恐怖を嘲り啜るために生み出したものがこのシルシであった。まるで犬の噛み跡のような模様を、八敷が見間違えるはずもない。
「なぜだ。アイツは、俺が封印したはず……」
「……待て。思い返せ、八敷。茂上が言うには、妹が失踪したのは今から半年ほど前のことだ。その頃、俺たちはちょうどヤツの術中にハマっていただろう」
「つまり、この子は、その頃刻まれたシルシによって死んだということか……」
なんということだ。八敷は思わずふらふらと目眩がした。耳の奥で、あの人形の
アイツを封印すれば、全て丸く収まると思っていたが、まさかここまでヤツの力が及んでいようとは。
これには真下も苦々しい顔を浮かべる。だが、このまま立ち止まるわけにもいかなかった。
茂上の妹にシルシが刻まれていたということは、近くに怪異が潜んでいる可能性が十二分にある。茂上が見せた写真にはシルシが写っていなかったことから、妹はこの辺りでシルシが刻まれてしまったと考えていいだろう。
すると、真下が不意に立ち上がった。
「とにかく……状況の分からない今、辺りでは妙なものが彷徨いているかもしれん。茂上、さっさと立て。ここを出るぞ。一旦帰って状況を整理するんだ」
半ば茫然自失状態の茂上の腕を無理やり引っ張って立ち上がらせるが、彼女は意気消沈したまま、ぶつぶつと小さく何かを呟いているばかり。真下と八敷が怪訝そうに耳を澄ませると、その言葉ははっきりと二人の耳に届いた。
「私の勝ち」
「は、」
真下が何かを言うより早く、目の前にあった遺体が突如として燃え始めた。突然のことに驚いた真下と八敷は思わず目を見張る。先程まで火の気なんてどこにもなかったはずだ。それが、どうしてこうも突然轟々と燃え盛り始めたのか。
「クソっ!」
八敷が持っていたペットボトルの水を咄嗟に出火元である遺体に向かってかけた。しかし、それは瞬時にジュウと蒸発するだけで何の意味も持たない。「無駄だ!逃げるぞ!」と叫ぶ真下の声に急かされて、八敷は走り出す。一方、茂上はと言うと、虚ろな目をしたまま真下に連れられている。そこで、八敷がはたと気づいた。
「おい、萌はどこだ!?」
「何だと!置いてきたのか!?」
八敷は振り返る。燃え盛る紅蓮の炎のなか……あそこに萌が取り残されたままだとしたら。
そう考えるだけでゾッとした。どう考えても助かるはずがない。山の中ということもあり、火の手は凄まじい勢いで燃え広がっているのだ。程よく乾燥した空気と、山上から吹いてくる風によって酸素を絶え間なく供給され続ければ、多少の雨でも鎮火することは難しくなるだろう。
「八敷!引き返すなッ!」
「だが、萌が……!」
「貴様が戻ったところで、何にもならん!渡辺萌は大丈夫だ!今はそう信じるしかないだろう!」
そう叫ぶ真下も、悔しそうに歯噛みしながら振り返る。不安なのは真下とて同じだ。その気持ちを必死に鎮めながら、今は必死に走ることしかできない。
そうして、何とか元の車を止めた駐車場にまで戻ってきた三人は、息を切らしながら戻ってきた山の中を振り返る。まだ火は燃え続けているようで、このまま放っておけば大変なことになってしまうだろう。
だが、依然として茂上の様子もおかしいままだ。痺れを切らした真下が、彼女の両肩を掴む。
「茂上、おい茂上!貴様、急にどうした!」
「おに……鬼は……鬼……」
茂上は、ボソボソとずっと何かを呟き続けている。その目は虚ろで、唇も真っ青だった。
「……クソ、仕方ねえ」
ギリ、と歯を食いしばる真下に八敷は「おい」と声をかけた。真下が今から何をするのか分かって止めようとしたのだ。だが、真下は「これが一番だ」と言うと、茂上を思い切り殴った。
いくら何でも女性に手をあげるのはいかがなものだろうか。腹のあたりが不安でぐるぐるし始める八敷だったが、それも杞憂だったようで、茂上は虚ろだった目をしっかりと開いてから真下を睨む。
「……今のは、結構ききましたよ」
「ならいい。おい、一体何があった。簡潔に言え」
存外平気そうな茂上に、呆気に取られたのは八敷だった。真下の言う『コイツの頭は岩より硬い』というのは、あながち嘘ではないのかもしれない。
「……すみません。よく覚えていないんです、妹を発見してから……急に意識が遠くなったみたいで……」
「これも怪異の仕業、というところか。全く、まさかこんな展開になるとは……」
真下は頭をガシガシと掻く。その間も、八敷はしきりに今来た道を気にしているようだった。萌は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
そのとき、突然三人の傍らに佇む自動車のトランクが内側からバンバンバン!と強く殴られる音がした。茂上はビクリと肩を震わせると、「もうやだ……!」と自分の両肩を抱く。その一方で、八敷はそろそろと車のトランクに近づくと、そのドアをゆっくりと開いた。
「もう、やっと来てくれた!このまま一人で取り残されるかと思っちゃったよ」
「…………萌?」
出てきたのは、渡辺萌だった。これには八敷も驚いて目を見開く。萌は窮屈な場所に押し込めていた体をぐーっと伸ばすと、「慣れないことはするもんじゃないなあ」と呟いた。
「おじさんたち、私がトランクからこっそり出ようとする前に車に鍵かけて行っちゃうんだもん。ほんとに焦ったんだから」
「…………待て。貴様は、俺たちと一緒に行動していただろうが」
「……え?何のことですか?」
思わずその場の空気が凍りついた。
萌の話によると、彼女は車のトランクに閉じ込められていたせいで、ずっと外には出られなかったと言う。では、八敷たちが行動を共にしていた“渡辺萌”は……一体誰だったのだろうか。