You're it

ばたばたと忙しなく廊下を駆ける音。一気に上昇する心拍数。最近ずっとこんな事の繰り返しだ。後ろを振り返りながら、懸命に廊下を走る私は、宛も無くただ学校中を駆け回っていた。昼休み、友達とお弁当を食べている時に侑がやってきて、にんまりと意味深な笑みを浮かべながら「ちょっと話があんねんけど」なんて言うものだから、咄嗟に逃げ出してきたのだ。あの笑顔、あの台詞、どう考えても嫌な予感しかしない。またこの間の様に捕まったら、それこそ何をされるか分かったものではない。

そう考えて逃げ出したはいいものの、あの諦めの悪い侑の事だ。きっと今も私を探し回っていることだろう。とにかくどこかに身を潜めなければ、見つかるのは時間の問題だ。どうしようと走りながら辺りを見回して、隠れるのに丁度いいところはないかと探す。こうしている間にも彼が迫ってきそうで、内心焦る私の腕を、突然何かが引っ張ってきた。ぐらりと傾いた体は、その勢いのまま空き教室に吸い込まれ、ぴしゃんと扉が閉められる。ぎゅっと目を閉じて、転んだ時の衝撃に備えていたが、その痛みはいつまでもやってこなかった。

「名無し」

聞こえてきた声に、そっと目を開ける。そこには、私の体を抱きとめる治の姿があって、倒れ込んだ私を抱え込むようにして上から見下ろしていた。私の腕を引っ張ってこの教室に引きずり込んだのは、治だったようだ。予想外の展開に目を見開き、驚きの声を上げると、治がシーと人差し指を口に当てた。

「あんまり大きい声だしたら見つかるで」
「……っ」

慌てて口を閉じて息を潜めると、廊下からバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。うろうろとこの辺りを歩き回っているようだ。恐らく、私を追いかけてきた侑だろう。見つかるかもしれないというハラハラ感が、緊張を高めていく。口を押えてぐっと押し黙っている私を、治も強く抱きしめながら扉を背にして座り込んだ。扉の向こうを見つめながら、その気配が消えるの待っている。やがて、侑は諦めたかのようにそこから去っていき、足音はどんどん遠ざかっていった。

「……行った…?」
「みたいやな」

ふう、と安堵の息を吐いて、匿ってくれた治にお礼を告げる。彼がこうして私を隠してくれなければ、今頃侑にまた捕まって色々な事をされていたかもしれない。何とかやり過ごせたことに顔をほころばせながら、彼の胸板を押し返して立ち上がろうとした瞬間だった。ぐっと力が込められて、私の体は再び治にきつく抱きしめられる。逆戻りした治の温もりに目を見開き、慌ててその顔を見上げる。彼の顔はほんのりと朱に染まっていて、私を真剣な眼差しで見下ろしていた。

「…捕まえた、名無し」
「お…、さむ……?」

その台詞は、いつも侑が私を捕まえた時に言う台詞と同じで。目を見開いて、私も釣られるように顔を赤く染める。この状況は一体どういうことだ、治は私を侑から逃がす為に協力してくれた訳ではないのか。侑から逃げられた安堵感は、今は治に捕まったことによる焦燥感と動揺に包まれていて、息を飲んで固まる。

「俺だって、お前のこと、」
「え………」

どきどきと心臓が煩く高鳴っている。触れ合う二人の左胸から、治も同じくらい心臓が高鳴っているのを感じた。ぎゅう、と力が込められた手、私の胸元に顔を埋める治。逃げなきゃ、と頭の片隅で思いながらも体が言うことを聞かない。震える声で彼の名を紡いでも、彼から返事が返ってくることはなかった。そっとその肩に手を置くと、閉じられていた治の目がうっすらと開かれて、再び私の視線と絡み合う。

「…名無しの匂い」
「おさむ……、」
「めっちゃええ匂いや…」

髪、肩、頬、胸…、色んなところに顔をうずめて、私の匂いと温もりを確かめている治に、羞恥心が募っていく。匂い、なんて言われたら、恥ずかしくて私は慌てて治の肩に置いていた手に力を込めて、押し返そうとした。しかし治は、そんな私の手を掴んで、ぐっと顔を近づけてきた。至近距離で混じり合う二人の視線に、私はまたもや何も言葉が発せられなくなる。ごくりと生唾を飲み込んで、目と鼻の先にある彼に目を見開く。

「俺だって、ずっとこうしたかった」
「…あ……、」
「ツムなんかに取られて堪るか」

その台詞は、私を勘違いさせるには十分すぎる程だった。侑に対抗心を燃やすように紡がれたその言葉を聞いて、私の心は激しく動揺する。治…、それじゃあまるで、治は私のことを…。そう考えている間にも、治の唇は私の頬、鼻、目、おでこ、と色んなところに落とされていく。ちゅ、ちゅ、と繰り返される軽くて優しい口づけ。治の優しい指が、私の髪を耳に掛けて、そこへも同じ様に唇を寄せてくる。より密着する体に震え、耳元で囁かれる彼の甘い囁きに体を強張らせた。

「名無し…、すごいドキドキしてるで」
「そ、それは…!治が、こんなことするから…っ、」
「俺のせい?」
「う…、ん……」
「じゃあ…、もっと確かめていい?」

確かめる?と首を捻る私の、鎖骨辺りに置かれた治の手。それが、するすると制服の上から這って、下へと徐々に下っていく。そこでようやく、確かめるに意味に気付いて、慌ててその腕を掴もうとした。しかし、私のその手は空いている方の治の手に掴まれて、止める事は叶わない。結局成す術なく、治の手は、私の左胸を服の上からなぞった。大きな手のひらに優しく包まれる感覚。余計に心臓は煩く騒いで、きっとこの鼓動の音は治にも伝わっているだろう。確認する為だとはいえ、付き合っていない男女の高校生同士が胸に触れ合うなんて、あってもいいことなのか。どうしたらいいのか分からなくて固まったままの私に、治はふと小さく笑みを溢している。

「俺のも確かめて」
「え…、」

治が握る私の手を、自らの左胸へ誘導していく。程よく筋肉のついた、男の人の固い体。制服の上からそこに触れると、とくんとくんと規則正しく刻む心臓の音が伝わってきた。治も、どきどきしてる。私と一緒だ。見つめ合いながら、そうしてお互いに左胸に触れ合っていると、再び治の顔が吐息のかかる距離まで近付いてくる。じっと私を見つめている真剣な眼差しは熱に浮かされて揺らいでいた。吸い込まれそうなその瞳を見つめ返していると、私ももう何も言えなくなってしまう。完全に治のペースに呑まれている。

「あ………、」
「名無し……、キス、していい?」

その質問に息を呑む。私の返事を待たずして、治の唇はどんどん私の唇に近付いてきて、二人の間に会話は無くなった。私、このまま治とキス、しちゃうのかな…、なんて思いながら、彼の左胸に添えていた手に力を込める。このまま雰囲気に流されて、二人の唇が後数センチで重なる、その瞬間。

「もうすぐ午後の授業が始まるよ」

突然響き渡った第三者の声に、二人はびくりと肩を跳ね上げた。慌ててその声の方へと視線を移すと、廊下から窓を開けて中を覗き込んでいる角名の姿がある。一体いつからそこにいたのだろう。夢中になっていて全く気付かなかった。角名は相変わらず無表情のまま私たちを見下ろしていて、見られていたという羞恥心に湯気が出そうな程全身を真っ赤にすると、今度こそ治の体を押し返した。呆気なく離れた治の温もりを後目に、急いで教室から飛び出して、治と角名を残して走り去っていく。火照る頬を両手で押さえながら、自分の教室に駆け込んで、未だに煩いままの心臓を必死に宥めていた。

(…治とキス…、しちゃうかと思った……)

頭の中にこびりついて離れない、先程の光景。治の甘い囁きや吐息、温もりがまだ体に染み付いていて、それを振り払うかのように固く目を閉じて頭を左右に振った。

「…タイミング見計らったやろ」
「人聞きの悪い事言わないでよ。俺は親切心で呼びに来ただけだから」

残された治は、突然現れた角名を恨めしそうに睨みながら、ゆっくりと立ち上がった。他意はないと言い張る角名を無視して、治も自分のクラスへと戻っていく。その後ろ姿を見つめながら、角名はその口元に小さく笑みを浮かべていた。まだ鬼ごっこは始まったばかり。いきなり決着がついてしまうのは面白くない。たった一人の標的を、誰が捕まえることが出来るのか。これは、逃げる名無しと追いかける鬼の戦いだけではなく、一体誰が最後に笑うのかという鬼同士の戦いでもあるのだ。

「今日は逃げ足が速かったな、名無し」

席に着くと、既に先に座っていた侑が頬杖を突きながら声を掛けてきた。意味深な笑みを湛えて私を見るその視線からぎこちなく目を逸らす。なんとなく今まで治といたことを後ろめたく感じて、別に、とただ一言返し、午後の授業の準備に取り掛かる。侑はそんな私を見つめながら、そっとポケットからスマホを取り出した。画面に映し出されるのは、治とのトーク画面。

『この借りは必ず返すで、サム』

送ったメッセージにはすぐに既読が付いて、返事が返って来た。

『望むところや』

あの時侑は、空き教室に治と名無しがいることを分かった上で、敢えて気付いていないフリをして引き返していたのだった。まるでこのゲームを…、この駆け引きを楽しむかのように。

さあ、次は誰が鬼をやる番か。
最後に獲物を捕らえることが出来る鬼は、一体誰なのか。
この勝負の行く末は、誰にも分からない。