船内へと向けた目を、真っ暗な海へと向けた。黒と、篝火を鈍く跳ね返しているオレンジと、赤と……
吸盤。
タトスの胴周りは軽く超える直径のそれが、白い幹にずらりと並んで持ち上がっていく。どんどん太くなって、ぐにゃぐにゃと曲がる塔がせり上がるように海から顔を出して……
タトスの頭上から、ゆっくり木を掴んだ。滴が顔にぼたぼたとかかった。
「……た」
ばかがついても足りないでかさの、大瓜みたいな頭部が、横に細長い切れ目みたいな目を覗かせてきた。
「タコが出たあああああああああ!!」
うねうねがまた出てきた。木を掴んだ腕だか足だかわからないが、吸盤がそのまま木材を掴むなり持ち上げにかかっている。力が入った赤い柱のせいで船縁がひしゃげた。
ぞっとしたタトスが槍を構えるも、目を狙うより先に足が迫ってきてよける。後ろはと目をやるも、やはり足が回り込もうとしているのか、先端らしいものがうねっている。
船員たちの慌てる声もしている。もはや悲鳴と喧噪だ。さっきの声は、船が急に進まなくなって驚いたものなのか。
船員たちも自らが持てる武器や道具を手に出てきたようだが、船に纏わりつく巨大すぎるタコに悲鳴を上げている。タトスは苦い顔で息を吸い込む。
「攻撃しないで!」
「何言ってるんだ、このままじゃ船がやられるだけだぞ! こ、こんな大きなもの見たこともないんだぞ、やらなきゃ潰される!!」
目の前に出てきた船員が吠えた。タトスは呻いて、タコの足を数えて勢いよく首を振る。
「そうだけど……今やったら余計刺激しちゃうだけだよ! わっ!?」
船べりが大きく凹んだ。船が壊れると船員たちが悲鳴を上げ、サーベルを手にした何名かがタコの足を斬りつけた。タコが暴れるように船を叩いて、船員たちを捕まえて潰さんとしている。
タトスは近くの船員の首根っこを捕まえて転倒させた。横殴りの足が鼻先を擦るように通り過ぎていき、タトスは間隙を縫って槍を突き刺す。
吸盤と吸盤の間に突き刺さった。タコの足がうねって、タトスは槍を引き抜き損ねて大きく持ち上げられる。しなる別の足が異物を引き抜こうとして、タトスは真下の足に向けて大きく体を振った。
後ろに、前に。勢いを大きくして――
槍が引きぬける。落下の勢いをそのままに、槍を大きく振りかぶり、真下の足へと鋭く振りかぶる。
切り裂く音が広がる。
足を斬り落としまではできなくとも、タコの発する聞き慣れない悲鳴は船体を容易く貫いた。甲板に着地したタトスは他の足を見定めようと全体をくまなく見て、はっとした。
木の軋む音がない。タコは船体にへばりついているのに。
「足をやったのか!」
「ううん、落とせなかった。けど船が軋んでない――多分リュナムがやってくれてるんだ」
「タトスー!」
青い髪の少女が走ってくる。はっとしたタトスは、彼女の真上のタコ足にぞっとした。
相手もこちらに目を瞠っている。
「ティファ上!」
「タトス後ろ!」
はっとして船員と一緒にタコの足を避ける。低い体勢のままもう一度斬りつけるタトスに、タコが悲鳴を上げて動きが鈍った。その間にもティファは軽やかに甲板を蹴ってタコの足を避け、タトスの隣に着地した。
目が綺麗に据わっている。愛らしい表情はまるで鳴りを潜めたようだ。
「もー、安眠の邪魔してくれて! 今リュナム兄が|防護の衣《プロテクト》の呪文で船を硬くしてるよぉ。かけ続けないと押し負けるって言ってたから、甲板には上がれないのぉ」
「わかった! オルファさんは?」
「船の人が水没を防ぐために板を運んでて、それで分断されたの! 今反対側に上がってるよぉ! リヴィン姉はね――精霊を|喚《よ》んでる!」
了解を伝える。これで役割ははっきりできた。後は自分がやることを見据えるだけだ。
剣を掴まれ放り出される船員は、ティファが水の精霊を呼んで、なんとか船体へと引き戻している。そう何度もできる芸当ではないだろう。タトスは槍を握る手に力を込める。
リュナムが言っていたことだ。魔法は万能じゃない。魔術も万能じゃない。
いつだって最後に窮地を開くのは
「人の力――!」
迫ってくるタコの足は乱暴だ。ほとんど振り回して当たるものを掴んでいるだけ。タコの頭はこちらに迫ってくる様子もなく、捕食する何かを探しているようだ。
と、くれば。
バキバキと激しい音が立った。|梶《オール》を折られたのだろう。腕がいくつも木片を持ち上げては興味を失ったように放っていく中、タトスは船員を見やった。
「タコって何が好き!?」
「……はあ!?」
「タトス兄何言ってるの!?」
「いいから! 何が好き!?」
「そ、そりゃ貝だ、あと豚の脂! あいつら白いもんならなんでも餌に――」
「じゃあその豚の脂肉と貝を持ってきて、早く!」
「わかった!」
船員が慌てて走っていく。ティフィーアが呆気にとられた様子だったが、やがてピンときて弓に矢を|番《つが》えている。
「わかったよお。顔の場所把握するんだねえ」
「うん。目を潰すか頭に傷が入れば、一度は怯むはずだから」
「それまであたしたちがここ守らなきゃね。でもこのタコがほしがる大きさのものがあればいいけどお」
「大丈夫、そこは船員さんならわかるはずだよ。僕らより断然! 猪は狩人、タコなら海の男だから!」
傷を負わせたものを探しているのか、タコの動きが甲板を這うようなものに変わってきている。定期的に床を蹴って避け、槍や矢、サーベルが吸盤に傷をつけるも、タコの動きは段々と洗練されているように感じる。先に足を落とさないとこちらに被害が出そうだ。
タトスたちがいる船尾に足は――三本。胴体を支えるのに最低二本必要のはず。
オルファが一人で船頭で戦っているとしたら、こちらに数を回したほうがいい。
「ティファ、あの足切り落とせる?」
一番傷ついている、槍を振り下ろした時にできた傷を抱えたタコの足を示した。ティフィーアが一つ頷いて弓を構える。
「やってみるよぉ。タトス、無理しないでね」
「うん!」
足が迫ってきた。ティフィーアと離れるように地面を蹴り、振動を派手に与える。タコの足が畝って迫ってくると同時、タトスは槍を遠慮なく振り回して吸盤を切り裂きにかかる。
タコだって何度も斬りつけられて、相当怒りが溜まっているはずだ。吸盤が一斉に動いて、筋肉の集合体みたいな足が迫ってきて、タトスは身構える。
足が近づいてきて、斬りつけた。引っこんだ瞬間迫ってくる別の足を跳んで避け、空中から斬りつける。
鎧がないからできるけれど、何度も連続してやるものじゃない。船べりへと転がって大きな振りかぶりは避ける。すぐさま飛び出して別の足を斬りつける。ティフィーアの矢が当たった足が怯んだのを見て大上段に振りかぶり、斬りつけた。
筋を捉えた。
切り裂いた手応えにタトスは「やった」と声を上げる。すぐさま周囲を見やって槍を振るい、迫ってきた足を斬りつけた。
もう甲板はタコの足がほとんど占拠している。きっと船底に貼りついた体を伸ばせる限り伸ばしているのだろう。
「上がってこい……!」
「タトス、矢じゃ歯が立たないよぉっ」
刺さった矢がへし折られた。タトスも顔が引きつり、同じ末路を槍で想像して身を震わせる。
篝火が船体から落とされた。じゅっと派手な音を立てて灯りが消える。船体の右側が真っ暗闇に飲まれてしまい、タトスは舌を巻いた。
まずい、これじゃ船員たちも攻撃できない。
「船の縁に隠れて! それから――灯り確保して!」
「うん! |光の精霊《ウィル・オ・ウィスプ》――=I」
ぼうっと青白く丸い光源が浮かんだ。船の上部を強めた光に、タトスは目を丸くする。
タコの足が一斉に光源へと足を延ばしている。足が触れた途端、光は爆発したように砕け散り、タコの足も火傷を負ったのが見えた。
なんで……灯りにも反応する?
「――いける。ティファ、いけるよ!」
「え、ええっ!?」
「持ってきたぞ!」
大きな豚の脂身が担がれてきた。タトスはしめたと笑みを見せる。
「ティファ、もっと高い場所に光の精霊を呼んで! おじさん、この肉もらいます!」
「え、うん!」
光の精霊をもう一度呼んでもらう。青白い光はどんどんと高い場所を照らしていき、船体は暗闇がまた覆い始めた。
タコの腕が、暗闇の上を這っていく。伸びていく。タトスはその間にも一抱え以上ある豚の肉を槍で斬りつけ、小さく分けた。投げられるサイズにまでそいだ肉を手に、大瓜の化け物のような頭部を見つけて振りかぶる。
白が飛んでいく。
海を大きく揺らし、派手な音を立てた肉の着水に、タコの動きが一瞬止まった。
「あの肉を照らして!」
「えええっ!? い、いいけど!?」
光の精霊が放つ光源が、月の光よりもくっきりと、赤身も白身も関係ない肉塊を白く照らした。
途端にタコの腕が肉塊に伸びる。掴み上げた肉塊を、船体から少し身を持ち上げて口へと運ぼうとする。放り込まれた肉塊の味を覚えたのか、足がまた船体を締めつけ出した。
肉塊をまた放る。もっと離れた位置へと。一つ、二つ――五つ。
肉が落ちる度にタコの足が離れて、貪欲に肉を求めていく。
六つ目を落としたタトスは、最初に伸ばされた足が肉を掴んだのを見て。
「足を斬りつけて!!」
船体に残っている誰かへと叫んだ。次の瞬間だった。
「|風の精霊《シルフ》、大海の王者の腕を、青の深きへと沈めましょう=v
少女の声。
一陣の風がタトスたちの頬を撫でた気がした。瞬間、船体を揺るがすような派手な水柱が舟の横から上がる。
波が割れたと錯覚するような大きな一撃が、タコの腕を切り払った。大きな風が船を煽り、船の帆を止めていたロープが開かれる。
帆が風を掴む。
タコがこちらへとまた注意を向けてきた。赤く太い足が迫ってきて、タトスは槍で斬りつけようとして、身が竦んだ。
足先に槍を掴まれた。
手を離す間もなく宙に放り上げられる。船から一気に引き剥がされる。誰かが自分を呼ぶ声が聞こえたも、タトスは歯を食いしばった。
眼前に迫る真っ黒な海。光なんてどこにもない、黒の中に僅かに見える赤い島。
その島に見える二つの相貌目がけて、槍をへし折ったタトスは手の中の棒切れを突き立てた。
黒の飛沫が全身を襲う。容赦なく口の中に塩辛い水が流れ込んでくる。
赤か黒かもわからない巨大な何かが、タトスの身を絡め取って、大きく開いた穴へと引きずり込んでいった。