離島戦記

 第1章 隔離された島

3rd「影法師が笑う昼」01
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 懐かしい音が聞こえる。よく、ようく、この音を聞いて、自分はこうして寝転んで、風の音か、獣の音か、耳に叩き込んでいた。
 これは――うん、風の音。猪だったら下草ばかり踏んでいて、細くて身丈が長い草や葦なんかは、自分たちが作る獣道を通るせいで、あまり音が立たない。音が立ったら上物の証だ。
 風の音だと、草たちは踏まれないから、優しいさらさらとした音が立つ。絹織物みたいな上品な音ではなく、むしろ軽やかで素朴で、時々恐ろしい音だ。
 波の音は王都の港で聞くことがあればいいほうだけれど、あんまり泳げないので近づきたくない。こうやって聞いていてもちょっと怖いし、やっぱり草の音のほうが落ち着く――
 目をはっと開いた。途端に胸が苦しくなって咳き込むと、塩辛い水が一気に溢れて口を塞ごうとしてくる。即座に体を横にした途端、吐き出した海水がこれでもかと砂地を濡らした。
 眩しい光が空を照らしている。雲が穏やかに浮かんでいる。ぼんやりと景色を見つめて、少し入り組んだような砂地と、そこに打ちつける波と、潮風にも耐えられそうな植物たちが繁茂する様を見て目を疑った。
 ここは、どこだろう。
「起きたか」
 はっと体を起こした。途端に全身に痛みが走り、タトスは呻いて身を縮める。
 足元に積もった毛布に、何がなんだかさっぱりだ。背中を擦られて、タトスはぎょっとする。
 男の手だった。なんだか、擦り慣れているけれど、ちょっと不器用な動きだ。
 恐る恐る見やって――
 《《自分そっくりな顔》》が覗き込んできた。
「わあああああああああああああああ!?」
「叫ぶな煩い!」
「いっ、だっ、だっ、お、おおおお化けええええええ!!」
 藍色の目がひくついた頬に何度か隠されかけた。耳を塞ごうと持ち上がっていたらしい手がはっきりと獲物を掴む気になって力を込められていた。
 灰色の髪、藍色の目。髪色が似ているだけなら別にタトスだって叫ばない。背丈はタトスより高いし、着ている服だってどこか上品だけれどもだ。
 こんなに自分そっくりな剣士が目の前にいて、誰が叫ばずにいられるものか。腕だけで後ずされるだけ後ずさって、足に走った痛みはすぐに吹っ飛んで、手に当たった棒切れを慌てて掴んで槍を構える姿勢を取った。
 剣士は二十代頃だろうと思われる若々しい顔に、殺気を乗せた目で睨み下ろしてくる。
「いい度胸だ。得物を取ったということはお前自ら討たれる覚悟はあるということだな」
「ないですでもお化け怖いです!!」
「誰が化け物だ! 人間のほうがよほど化け物だろうが、失礼極まりないガキが!!」
 力いっぱい怒鳴りつけられ、タトスの身が竦んだ。延々と反響する音は絶対タトスが上げた声よりも大きかったと、自信を持って頷ける。
 ほら今も反響――あ、お化けって叫んだ自分の声だった。
「じゃ、じゃあお化けじゃないなら、なんなんですか……っ!」
「……貴様人族とアンデッドの区別もつかんのか。生きている者の見分けぐらいしっかりつけろ、青二才が」
 ぶっきらぼうに苛立ちと侮蔑を込めて睨まれると、自分の顔に似ていても迫力があって怖い。タトスは身を震わせてやっと、自分が後ずさったせいでずり落ちた毛布を見下ろした。
 後ろに響く波の音に、段々と状況を飲み込んでいく。
 あの巨大タコに襲われて、船を守ろうとして……
 槍を、捕まえられて、夜の海に落ちて。
「……もしかして、助けてくれたの? 僕確か……」
「クラーケンに襲われていた。正確には、一度腹の中に納められてたぞ」
 あの大タコの口の中に、入っていた?
 タトスはぞっと身の毛がよだった。青年の言うとおりだとしたら、そのまま体を噛み砕かれていたかもしれないのだ。呆れたように毛布を持ち上げて砂を払う青年は、焚火を踏み消している。
 熱く、なかったのだろうか。まだそこそこの背丈を持っていた火種は簡単に消えていく。彼は意に介した様子も、ましてや熱さに慌てる様子もない。
「随分ふざけた阿呆もいたものだ。いや、旅装もまともに整っていない小童程度では当然だったな」
「こ、小童……あの、僕、船の見張りの時間じゃなかったんだ。寝る直前に襲われて……」
「なおさら阿呆だ。鎧もなしに戦いに出るのはただの死にたがりもいいところだぞ」
 ご尤もだ。冷静さを欠いていたなと、タトスは言葉を飲み込んで頷いた。その上で青年を見上げると、まるで父の話に出てきた鬼教官のような目で見下ろされた。
「まだ釈明したいことでもあるのか」
「釈明……? えっと、それになるかはわからないけど、助けてくれてありがとう」
 かすかに藍色の目を見開いた青年は、やがて素っ気なく、草の上に腰を下ろした。
 どうして驚かれたのかはさっぱりだった。タトスは恐る恐る立ち上がり、軋む体に呻いたも、青年を見下ろした。
「隣、いい?」
「好きにしろ」
「ありがとう」
 足を少し引きずり気味になった。止血されていたが、包帯の下の足はまともに動かせないだろう。その包帯だって、巻いてくれたのはきっと、この青年なのだ。
 悪い人じゃない。それだけは、確かにわかった。
 焚火の名残の温かさが、薪となっていた木の上にほんのり残っている。痛む足をそろりと動かしながら座ると、背中に毛布を掛け直されて、思わず笑みが出た。
 驚かされたのは、今度はタトスのほうだった。
 青年が笑っていたのだ。優しい、暖かい眼差しで。
「お前は阿呆だな」
「アホじゃないよ。バカはよく言われるけど……あれ、なんでアホなの?」
「そんな簡単に人を信用するからだ。莫迦はどこぞののっぽに言いすぎて顎が疲れた」
「背が高い人なんだ。いいなあ、きっと腕も長いよね。短槍を扱っても長槍みたいに戦えそう」
「お前は槍を使うのか」
「うん、長槍だよ。猪も熊も倒せるよ。村では一番――とはいかないけど、ちゃんと戦えるんだ」
「そうか。その得物を折りながらでも戦ったのか」
「あ、見られてたんだ」
 当たり前だと、青年は静かに笑う。最初のつっけんどんな態度は嘘のように、タトスを見やる目に鋭さはない。
「でなければ、お前の怪我はそれだけで済まなかったぞ」
「うっ、そうだった……あれ? でも待って。それだけ近くにいたなら、あなたの船はどこにあったの?」
 はたと気づいたことを口にするなり、青年の顔が少ししかめられた。次に湧いた疑問の頃には、彼がまた顔色をよくしていないことにもろくに気づけなかったけれど。
「って、言うより……ここどこ!?」
「……そこに関しては、随分今さらだな。レドゥだ」
「レドゥ島!? えっ、うそ!? ここがレドゥ!?」
「当然だ。あれだけ空を突き抜ける山が、|天招《てんしょう》の|階梯《かいてい》以外何に見える」
 示されたのは森の遥か向こうだった。
 鬱蒼と茂る森の上。晴れ間が見える空を二分するように、まるでそびえ立つ槍のように真っ直ぐ空に《《突き刺さったまま動かない》》、巨大な塔が見える。
「あれ……山? ……山!?」
「当たり前だ。――俺も聞きたいことがある。お前はどこからやってきたんだ」
 青年へと驚いて振り返り、身が竦んだ。
 さっきのような温かさがまるでない。どこかヴァリエス国王を思い起こさせるような、先ほどと打って変わった静かな目が、鋭く自分を射抜いてくる。
 息を呑みそうになって、タトスは貼りついた舌を上顎からなんとか引っぺがした。
「お、王都から……っ」
「センディアムから? ――何か月前から出た船に乗っていた」
「なんかげっ、違うよ!? 僕が乗った船は昨日出航して……!」
「冗談はよせ。本土どころかこの島は、半年以上もレドゥ島の外へは出られなくなっているんだぞ」
 どういうこと?
 金槌で頭を殴られたのだろうか。そうに違いない。これだけおかしなことが続くのだから、夢でも見ているのだろう。
 自分が乗ってきた船が、半年以上前に出たもの? それこそそんなばかな。
 昨日の夜自分があの海の怪物に襲われてなければ、青年との会話が噛み合わなくなる。たとえ二日三日寝ていたとしても、数日以上航行した記憶なんてタトスには全くない。
 何日も寝ていたなら、それこそこの青年は指摘していたのではないだろうか。
 なんだろう、この違和感。この、《《ずれ》》。
「ほ、本当の本当に、つい昨日だよ……リュナムたちと、この島を調べに来たんだ。突然現れたから」
「現れた? ――待て、どういうことだ」
 しまった、リュナムに黙っておけって言われたのに。
 口を慌てて噤むも、青年の鋭い目を見て申し訳なさから口を開いた。
 決して、青年が責めているわけではないのだ。自分を助けてくれた人に、黙ることはできない。
「あの、ごめんなさい、細かくは、その……もしかしてあなたは、この島の人?」
 なんだか頭が混乱してきた。目を見張る青年はまるでタトスを見ている様子がないのだ。血の気が引いていく、といった様子で、ゆっくりやってくる波を見ているようだ。
「……外海と繋がったのか……?」
「えっと……どうなんだろ? レドゥ島って何百年も前に消えた島だから、僕たち調査に――わっ!?」


ルビ対応・加筆修正 2020/05/10


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