「こんにちは、お
夏の暑い時でも、冬のからっ風がつらい時でも。
あの祖父は、孫たち来る度に、必ず隼の頭を
はしゃぐ姿は、いつも隼だけ。
「おじいちゃん」
「隼、よう来たなぁ。ええっと……」
「親父、またボケが進行してないか? 隻だよ、隻。ほら、お前も
そっぽを向いていた隻は、母の目を
祖父は隻の字から、知らないから。
――いや、昔は知っていたという。それで両親に
「そうそう、
「いや……親父、玄関先で
「ははっ、まだまだ体は若いぞ。どれ、隼。肩車してやろう」
言われたのは、隻のほうで。
隻はびくりと体を震わせ、視線をそらして首を振った。
「お父さんがいい」
「そっちの隼は怖がりさんか? ん? よしよし、お前さんたち、アイスでも食うか。みんな上がりなさい」
不思議と、隼、隼と言ってはいても、あの祖父はどちらが本当の隼なのか、見分けていたようにも見えた。
それなのにずっと呼ぶ名は、隼だけ。
両親ですら戸惑っていたという。名前を覚えようとしても、独り暮らしと人付き合いの少なさですっかり認知症になった祖父が相手だ。仕方のないことだと、両親は諦めていた。
祖父は、肉をあまり好いてはいなかった。魚の肉ならまだしも、牛肉や豚肉、
いつも祖父に引っ付いて回るのは隼のほうだ。隻は大人しく隅っこにいて、母に怒られないように、祖父に声をかけられないように立ち回った。
祖父が怖いというわけではなかった。どこか人じゃないように見えていたのだ。今思えば、祖父が
屋根裏部屋の
父親としては尊敬していると、祖父が亡くなった
祖父は決まって、隻と隼が来る時は出迎え、お菓子をくれた後、逃げる隻をそっとして、隼に書斎の中を見せてくれた。
一度か二度、本当に数回行ったかどうかの書斎は、薄暗いのに変に湿っぽくなかった覚えはある。
机と、使われてなさそうな
綺麗な何かの原石や、丸く磨かれた石ころ。貯金箱に、小さな鳥居。とにかく。いろんなものが置いてあったはずだ。
その数少ない記憶の中で、祖父が何か言っていたような気がした。
「――、この手帳はな――」
「どうして……?」
「――だけにしか、――さ」
虫食いだらけの記憶は。
それこそ消したくてたまらなかった隻の当時を、鮮明に
「――ノートの記憶、か……その時は何か書いてあったのは覚えてるんだろ?」
「ああ。だから書かれてないのが引っかかってる」
響基に問われ、苦い顔で言い返す隻。千理は床に広げた方陣を睨みつけながら、話に耳を傾けているようで。悟子も複雑そうな顔で、隻からも隼からも視線を
隼が懐かしそうに笑んで、首を振っている。
「……まあ、確かにおれのほうが沢山ここに上げてもらったけど……な。『ほかの人には見えないものがいるって言うのは、言っちゃだめだ、じいちゃんと二人だけの約束だぞ』って。そればっかだよ」
隼は苦笑いを浮かべていた。
「一日一回毎回繰り返しだぜ。ボケが来てる程度にしか感じねえわ。けど、なんかじいさんと一緒にいると安心したな。ってか、この家にくれば鴉と話せたし……ここなら追いかけられたりしないからな」
そうでしょうねと、千理が頷いている。
「ここ、相当強い結界が張ってありますよ。こないだ見た土地神連中も、路頭に迷ってた感じはありましたけど、全部平常運転でしたから。あんまりにも厄介な方面に狂った神は入ってこれない土地になってるんすよ、ここだけね」
よくわからないけれど、とりあえずふうんと流しておく。千理が脱力し、いつきが方陣を
「二人ともこの方陣については覚えがないのか?」
「あー……あったら多分、親父にでも聞いてたとは思うけど」
隼が微妙そうな顔で頭を
「俺だったら一撃で、じじいと一切合財
「だよな」
こんな用途もわからない方陣をいきなり見せられて、子供が
大学時代にほんの少し聞いた話だけれど、子供は不可思議なものに対しての好奇心は旺盛でも、自分の害になりそうなものは直感的に避けるそうだから。
千理たちも納得と言いたげに頷いてきて、隻と隼はもう一度考え始める。
「――あと……じじい、どっかその辺に桜の花をいっぱい入れてたの置いてなかったっけ……」
「桜の花? あったかそんなの」
隼が目を丸くして聞いてきた。隻は戸惑いつつも頷き、「なんでお前が知らないんだよ」と苦い顔になる。
たった一度だけ来た当時は、こんな布あったようには思わなかった。むしろあったのはあの花弁や、ノートに書かれていた変なメモだった。
なんであるはずのものが――。
「……くっそ、本気でタイ姉来ないかな……なんで夏いつも東北か北海道なんすかねーあの人」
千理がぐったりして呟いている。翅が「ヨシ子さんこういう時だけ必要なんだもんなぁ」と、言ってはならない一言をほざいている。
ふと、いつきが布に描かれた方陣を見やって目を細めた。
「……隻。それと千理。この方陣の説明、誰からか受けたか?」
「そりゃあ受けましたよ。おじさんと正造じーちゃんから。確かどこかにエネルギーを送る役割と、もう一つ……集める役割?」
「じゃあ次だ。隻はこの方陣、覚えてる限り
「……いや……あの時がむしゃらだったし、覚えて――」
軽く
円陣の
見当たらないのに――
「……同じ……だよな……? あれ? ……ちょっと待った……」
同じだと思う。思うのに、なんだろう。言い表しようのない靄を感じるのに、それをはっきり違和感と呼べない自分がいる。
答えが出ず、しばらく沈黙していると、隼が戸惑うように部屋を見渡している。
「……じいさん、いったい何を
「隼さんはこの布、覚えあるんすか?」
「ああ。むしろ桜の花だとか、ノートの走り書きだとか、そっちのほうが覚えがない」
隻は耳を
「隻さ――えっとごめん、隻、念のため聞くけど、小さい頃はなんにも視えてなかったんだよね?」
「見えてたら隼と同じように言われてただろ。『なんとかの秘密云々』――あっ!」
目を丸くした瞬間、隼もいつきも遠い顔になった。
「うん、まあ……隻が見えない範囲はそれで納得行くんだけどな。ただ、おれは見えないのに隻には見えるって」
「そういうのもあるんすよ。一方だけって見たら、
隼が目を丸くして千理を見下ろした。真剣な顔で布の方陣を睨みつけていた千理は、するすると布を巻いて片付け始めている。
「特定のものしか見えない目を持ってるのが霊視能力者だけって言うのは先入観なんですよ。まあ言葉の
千理は弱ったように翅を見やり、ふっと諦めたような溜息をついて、それを見て苛立った翅に殴られている。文句が飛ぶより先に、響基と悟子からも遠い顔をされ、翅が本気でしょげたではないか。そしてその後、ふと気づいたようにいつきを見上げている。
「なんで俺こんな顔されなきゃいけないの?」
「わかってから
「拒絶?」
翅と声が被り、隻は驚いて彼を見下ろした。隼に至っては外野ポジションだと上の空で嘆いている。
悟子が隼にすみませんと謝った後、隻と翅に向き直ってきた。
「元一般人の二人はあまり知りませんよね。幻生を見ないで住む世界を意識的に作り出す、拒絶≠ニいう技法があるんです」
「それ使えば、一時的にでも一般人とある程度近い世界の見え方するんすよ。けどこれ、一般人の出の人ならともかく、オレらみたいに生まれつき術師としての修行
「俺特!」と目を輝かせて叫んでいた翅を見事撃沈させる説明だった。隻も苦い顔になり、頷いた。
「要するに、中二病の塊じゃない奴に有利な技ってわけだ」
「うんそうなる。技って言ってる辺り、隻も随分と中二だって思うけど」
「殴るぞ響基」
「ごめんなさい!!」
片手にボール、片手に拳でどちらか選べの状態を作れば、見事にびしっと背を伸ばして謝られた。瞬時にバスケットボールを消す隻に、千理が残念そうな目をしてくる。
「ある意味この中では、一般人の時間が長い隻さんのほうが習得しやすそうなんすけど……隼さんは生まれつき霊視があるんでしょ? 翅は想像力豊かすぎて、昔の世界の見方しようとしても無理だろうし」
想像力がないことが逆にいいと言われるなんて思ってもみなかった。
玄関のインターホンが鳴る。次々湧き出る疑問を抱えたまま、隻は玄関に向かうべく階段を下りた。
ノートの文字といい、桜の花といい、本当に厄介だ。
どうやったら見れるのだろう。ついでにどうやって――
「まだ学校の怪談の件も終わってねえのに……はい、どちら様ですか――」
白と、黒。
玄関を開けて目に飛び込んできたのは、たったその二つだけで構成された曲線美の
この夏の中に映える陶器のような白い肌。漆黒なはずなのに豊かに波打ち、輝きを落とす、黒いはずなのに透明な水を連想させる
思わず目を奪われ、はっとすると同時に顔が
「ごきげんよう」
「あ……ご……こ、こんにちは……何かご用ですか……」
なんでここまで戸惑ってんだよ俺!!
心の中で自分に激怒する反面、目の前の女性から目をそらすしかできない。恥ずかしくてたまらない。冷や汗を通り越して顔が赤くなって、熱中症のレベルではない。見れない!!
「ふふ、結構
「え!? あ、はい翅なら――おい翅! お客さ――」
……あれ? ちょっと待て。
あいつに東京でお客で、まともにあいつが連絡してそれでえっと……え? 待って?
今日も? 今日もって、え?
ぎしぎしと首が
妖艶なのに無邪気で、それなのに子供のそれとは違う美しさにまたも
「……はい。今日もいますよ……」
「そう。ありがとう」
「何ー隻さ――ぎゃあああああっ!?」
「てっめえ――――――――――!!」
ずどん。
バスケットボールが一個、隻の手から離れる。スピードを保ったまま重量を大幅に増して翅の腹を抉り、吹っ飛ばした。壁に激突しても穴は開かず、隻は息を切らして肩を上下させて、翅を睨みつける。
「なんで言わなかったんだよ忘れてただろ!!」
「なんだ今のお……」
隼たちが降りてきた。肩を上下させている隻と、壁にもたれて気絶している翅の二人を見れば、バスケットボールが消えていても皆現状を察したようだった。
響基が顔を真っ青にさせ、悟子といつきは遠い顔。隼は生温かい顔で双子の弟を見てきた。
「お前すっげえ理不尽なことしたな?」
「るっせえ!!」
「あらあら、乱暴な子ね。勇者様、それからご一行。お久しぶりね」
隼が目を輝かせて「ごきげんようお姉さま!!」と叫んだのを見てまたバスケットボールを飛ばした隻。さすがに隼は癖で受け止めようとして、咄嗟にボールが違うと気づいて青い顔で
「くそっ、念のために貼っておいた耐圧結界がえらいダメージ受けてる」
「心配そっち!?」
怒らせていた肩を震わせ、どっと音が出そうな溜息をついた悟子は、冷めた目で桐原凛を名乗るエキドナを見やった。
その後、一応隻にも。
「いいですよね。お久しぶりです、どうぞ」
「鳥使いの坊やは相変わらず、ね。そんなに私が嫌い? 魅了が効かない子は、私から見て好きよ?」
「すみませんがお断りします。妖精側の人間として。それから鏡分家の人間として、慎みがない方は嫌いなので」
……。
魅了、やっぱりされてたんだ……俺……。
視線をそらして、隻はエキドナこと凛に目を合わさないまま、道を開けた。
「……どうぞ」
「ありがとう。ごめんなさいね」
「あ……まあいっか」
響基が苦笑いしているのを見上げ、疲れた顔をする隻。いつきもほとほと呆れた顔をしている。
「基本、大抵の
「――っ、知るかよそんなこと!! くっそ腐れじじい、地獄行ったらぶっ飛ばす!!」
「ぶっ飛ばされるの、どっちかって言うとおれらだと思うけどなぁ」
冷蔵庫から土産の一つのようかんを取り出す隼の苦笑いといったら。
腹立たしいことこの上ないのに、あれだけ警戒していたエキドナに、一撃で魅了された事実が頭の中で大きく鐘を鳴らしてきて泣きそうになる隻だった。