「面白そうだったから見てみたかったのよ。あなたを」
「面白がって俺に魅了使ったんですか。へー」
視線は絶対に合わせない。悟子を見て学んだ教訓を実践すれば、案の定、視界にさえ入らなければ割と耐えられた。
千理はまだ屋根裏部屋で調べ物をしているようだ。天井がギシギシと言うだけで降りてくる気配がまるでない。
やっと起き上がれるだけの体力を取り戻した翅は、怯えた様子で凛の近くに縮こまっていた。そんな彼にぴったりの表現はもう、このぐらいしか思いつかない。
虎の意を狩る狐。腰巾着。
隼が笑顔で茶を凛に勧め、一同に配っていく。隻ももらって心を落ち着けようと飲んで、
「にっ、苦!!」
「あ、当たり? それ多分一番最後に
「何変な淹れ方してるんだよお前!! 適量を人数分、順番に
「隻さんなんでそういう主婦っぽいところ
「お袋のせいだよ!!」
翅に叫べば、怯えるわけでもなく納得の顔で頷かれた。凛はおかしそうに笑っている。
「予想通り面白い子ね。少し見ないうちに、皆も雰囲気が変わってるから……あなたのおかげかしら?」
ぽかんとして凛へと目を向けて、また顔が赤くなってばっと逸らす羽目になった。悟子が呆れ果てた顔で隣に座って、手を握ってくれる。
「ぼく、体質的に魅了が効きませんから。これで隻さんも魅了されずに済みますよ」
「……悪い……」
「ぼくより
……突っ
すっと退けられた茶の存在も忘れた。生温かい空気が流れ、響基が気まずそうに「えーっと」と注意を
心が痛い。
「雰囲気変わったかな、俺たち。そんなに変わってないと思ってたけど……」
「変わったわ。絶対。私と会った時より、少しだけね。……まあその話は今度じっくりするとして、お土産話でも聞かない?」
「土産話? え、何々? それってどういう感じですかおねえ」
「隼」
ドスの効いた低い声に、隼がすごすごと顔を引っ込める。そのくせ、彼は隻の真反対、凛の隣の翅の、さらに隣に座ったではないか。
こいつらっ。
「実は最近。この地域でね、
それって、昨日響基が耳にした件か?
隻が響基に目を向けると、彼はすぐに気づいて真剣な面持ちで頷き、凛を見据えた。
「もしかして、学校で広まっている怪談か?」
「あら、既にいくつか知っているのね。それが核心とは言い切れないけれど、負けた立場として助言しようと思って」
それは、翅たちに対しての――自分たちに対しての、警告ということだろうか。
「今回はいつもより慎重に動きなさい。あの人がいなくなった今、秩序が乱れかけている。あなたたちが大きく行動すれば。それは双方にとって、大きな痛手になりうるでしょう」
それは――
「やっぱりあんさんも師匠と知り合いだったんすか」
はっとして階段の方を見上げて、絶句して冷蔵庫付近を見やった。
呆れたと言わんばかりに冷めた目で凛を見やる千理は、冷蔵庫に残しておいた彼の分のようかんを手に、こちらに溜息をついている。
いつの間に――あの階段も床も、あれだけ
凛はほんの少しだけ、油断のない笑みを作った。
「あなたは相変わらず、かわいげがないわね」
「そりゃどーも。あんさんに気に入られたって面白くもなんともないし万々歳」
「……最近の身長の低い子はツンデレばかりね」
「身長低いのはオレのせいじゃないですー。ってか肉体年齢止まってたの、あんさん気づいてたんすね。くっそ三年前に教えやがれってーの」
苛立たしいとは違うけれど、三下口調がさらに強まった千理は隻の近くに腰かけた。声が聞こえていたというより、今しがた立ち聞きした感じの残る彼は、隻が大丈夫かと目を向けると肩を
「いいんすよ。予想ついてましたから。オレも三年前、
「あの戦いは楽しかったわよ、さすが彼女のお気に入りね」
「その言われ方されるのは
軽く笑って、その後千理は凛の隣に立つ。睨み下ろす彼に、隻は腰を浮かせかけて――
千理が畳に膝を突き、土下座をしたのを見て、目を丸くした。
「すいませんでした。勝手に
「――謝罪する意味はないでしょう? 私はそういう存在であり、そういった者よ。傷つけられた覚えは
「上げる気はありません」
「千――」
「あんさんを悪か善か、そんなたった二極だけで判断するのはもうしたくないんすよ」
目を丸くした。
それはいつきも、響基も。そして悟子も。
本当に頭を上げないまま、千理は続ける。
「オレのけじめです。ただの
けど、それは、エキドナが敵だと、最初に幻術使いを裏切ったという歴史を、否定するもので――
ああ、そうか。
今さら、
「
やっと顔を少し上げる千理は、どんな言葉にも動じる気はないかのように、真っ直ぐ凛を見据えた。
「あんさんの行動は善とか悪とかじゃない。母親だからやれた行動じゃねーかって。オレのものさし≠カゃ、あんさんの行動をどっちかに定義しろなんて言われても、できなかったんです。そういう母親の
作られたような笑みが、
凛は少しして、本当に、母のような笑みで千理を見下ろし――そっと頭を
「――真っ直ぐに、育ったわね。その、愚直なまでの素直さには完敗よ……ふふっ、なんだかこの時代が好きになりそうね」
「ぐちょ……なんなんすかそれ! オレなりの考えそんな単直!? ひっでー!!」
むかっ腹を立てて背筋を戻す千理に、翅といつきが背中を勢いよく叩いた。
悶絶するその少年の後ろ、すっきりしたように凛と頭を撫でる権利を交代した翅は、千理の涙目を見て満面の笑顔。
「うんそっかーバカだよなーお前」
「……翅
「えーうっそー超傷つかなーい」
「白々しい」
いつきと悟子の据わった声音が見事に
……どうして一挙動一挙動、全部綺麗なんだろう、この人。
「あなた、左腕を切り飛ばされた後、彼女に傷を
「そうですけど……あー。もしかしてもうそういう時期……?」
一応背中の痛みは諦めたのか、顔を上げた千理まで渋面を浮かべている。凛が頷く様子に、隻は困惑する。
「そういう時期って、何が?」
「……うんと……オレの傷、完全に塞がってるかは知らないんすよ」
しばし、一同が沈黙した。いつきは呆れたような溜息をついている。
「だろうな。
「うん、いつき兄の言う通り。だけどオレの場合、切り飛ばされた後病院にも行ってないんすよ。で、止術で傷を誤魔化されて、あと――霊薬で肉体年齢ほとんど止められてるでしょ」
「あ……」
隻もやっと意味が繋がり、顔が青くなった。
つまり、その傷を塞いで、かつ体の年齢をほぼ止めた張本人が死んだ今、いつその術が消えて傷口が開いても不思議ではないのか。
肉体の加齢が二分の一にまで遅れているだけとはいえ、傷口の治りは確実に遅い。以前の問題で、隻の前だけでも散々生傷の絶えない行動ばかりの彼の傷が治っているわけがないのだ。
翅が千理に目を据わらせている。
「だから俺言ったよなぁ」
「でも今回のはオレも予想外なんすけど。師匠、ずっと生きてるって考えしかなかったんすから。あと……年齢半分になってるなんて知らなかったんすもん」
それは事実だろうけれど、無茶したお前も悪いと言いたい。
千理は不安そうに左手を見やり、凛へと目を向けた。
「後どのぐらいなら持ちます?」
「さあ。私は施術していないもの」
「ですよね……あざっす。まあ覚悟はできてますし、いざって時はなんとかしますよ――たんま! ちょい翅たんまっ、変な意味じゃないんすからね!? 生きるよちゃんと生きるよ!?」
翅の笑顔の拳を避けようと、千理が隻の真後ろまで逃げてくる。が、すかさず殴った隻に、翅が笑顔でサムズアップ。隻もサムズアップ。
笑って見ていた凛は、「大丈夫そうね」と零して湯飲みを手に茶を飲む。
「さて、それじゃあそろそろ帰りましょうか」
「つぅ……! ひどい……あ、いや待ってくださいよちょっと。助言一応聞こえてましたけど色々と待ってくださいってちょっと――うんさーせん、オレも魅了効かない性質なんでそんな目で見たって無駄ですんで」
そも、恋愛云々から疎かった千理なら効かなくて不思議ではないような。
凛の残念そうな顔はともかく、千理はおもむろにジャージの中からコピー用紙を一枚取り出すと、それの上に幻術で円陣を書き出した。凛がほんの少しだけ眉を持ち上げている。
「この陣、それから隻さんのお祖父さんの相次郎さん。この繋がり、なんなんすか。師匠も隻さんのお祖父さんのこと知ったような口ぶりでしたし、それ絡みでまた一騒動起こるんだったら、早めに手打ちたいんすけど」
「……それは、私が語る範囲ではないわ」
「……どうしてもダメなんですか?」
思わず聞き返す隻に、凛はほんの少しだけ目を向けた。隼へも僅かに視線を向けて、首を振っている。
「私が語るべきはもう過ぎているもの。ただし一つ。語り手には気をつけなさい」
「語り手?」
「主に怪談や物語を人に聞かせる話し手のことだ」
いつきが渋面を浮かべて、隻に説明してくれた。
「特に幻生の性質上、語り手なくしては存在できないものは多くいる。代表格は学校の怪談、百物語、童話の存在だな」
さっきも怪談について言っていたけれど、そんなに警戒するべきものがあるのだろうか。
もしかして、本当に今自分の母校は幻生たちに脅かされているのか?
凛は
「そういった子の中には、力を強くするために、人間を取り込み、操って、自分の語り手に仕立て上げる子もいるの。真実を知りたいのであれば、油断しないことよ」
茶を飲み干し、凛はコトリと茶托に湯飲みを置き、「ご馳走様」と玄関へと出て行った。はっとして隻は慌てて立ち上がり、玄関を飛び出して凛を見つけ、目を丸くする。
「桐原さん!」
黒が振り返った。すぐに駆け寄った隻は頭を下げ、苦い顔のまま家へと振り返って――すぐに凛へと視線を向ける。
凛が驚いたような顔をしたが、先に言うだけ言ってしまおう。
「ありがとうございました。あと……じじいが俺にって
「……探しようがない? それは本当に?」
「はい。俺、もう一般人の見る視界じゃないんです。じじいの――祖父の霊視能力は、本当は隼だけが遺伝してて、俺は全く見えた試しがなかったんです。三年前の事故まで」
「事故……そう、そうなのね」
ぽかんとすると同時、はっとした。
ずっと、視線が絡み合ったまま。
段々と頭に血が上り始めて、隻はそろそろと視線を逸らす。が、すぐ失礼に気がついて戻そうとして、どこに目をやっていいかわからなくなり、結局俯いた。
忘れてた―――――――――!
凛が少し笑い、その笑みも引っ込んだのは声でわかった。
恥ずかしさを通り越して、先ほど言われた初心の単語が延々と釘を深く打ち付けてくる。
「彼を知る者は、私や彼女だけではないわ。あなたの身近に、そしてきっといつか出会った
戸惑い、顔を上げる。
凛は微笑むわけでもなく、無表情にこちらを見てきていた。
「知りたいと思うことを止めはしないわ。けれど覚悟しなさい、それはあなたがあなたでなくなる時。あなたがあなたを忘れなければ、知ったその後も後悔せずに歩けるはずよ」
「――は、はい……」
「――覚悟はないのに、無謀なのね」
数ヶ月前
凛の暖かなまなざしが、真剣なものに変わった。
「いいわ。一度だけ、手を貸してあげる」
黒い服の中に手を入れ、小さな小瓶を渡してくる。
ビーズが数粒入るかどうかの、本当に小さな、その口に指を押し当てても入らないだろう、コルク栓で閉められた小瓶の中に、小さな
「一時的に、私たちが見えなくなるとは思うけれど、保障はしないわ。一瞬かもしれないし、永遠かもしれない。あなたは最近体に負荷をかけすぎている。覚悟して使いなさい」
「――ありがとうございます」
小瓶を握り締め、頭を下げる。凛がまたおかしそうに笑い、「それじゃ、ごきげんよう」と去っていったのを見送って。
家の塀に手を突いた隻は、全力で息を吐き出した。盛大に挫折した。
顔が赤くならないようにするのすら、もう全身全霊だったのに。
「……俺
気づきたくない自分の一面であった。