違う
鬼なら、鬼なら……けど違う
違うのに……!
「先輩、この人と付き合ってたんだっけ。元々一般人ならしょうがないけど――まさか阿苑まで出し抜かれてるなんて思わなかったんだけど」
いつきは沈黙しきったまま。普段なら言い返すはずなのに、口を重く閉ざしている。響基と翅が完全に顔に怒気を出している中、
「鬼には人の皮を被って過ごすこともあるんだよ。びっくりしたー。地獄の、それも赤とか青とか黄色ならまだしも、黒の鬼が人の姿に成りすましてるなんてね」
頭の中で、祖父の文字を一言一句思い出せる。覚えている。
千理に頼まれてメモに写し取ったし、確かに見た。見たのに……。
士の目が静かに、いつきへと向けられた。
「どうして滅さなかったのか聞きたいんだけど、いーい?」
「――っは。頭の出来が悪い奴に言って、理解できるはずがないだろうが。バカに
「バカはどっちかなー」
いつきが苛立ちを隠さず舌打ちしている。士は庭のほうをちらりと見やり、八卦に手を置いて何かを掴む仕草をした。
「少なくとも、ご当主は見抜けてたんだ? 余計バカって思うよ。当主が簡単に裏の見えない相手を家に入れるなんてマヌケだね。
いつきの口が、歪んだ。
その中から漏れ出たのは、嘲笑で。
「当主になったこともない奴が、家を考えろ、か。
「そう見える? だったら阿苑の家も随分と終わってるんだね。中が
淡々と言う士は、八卦の上の何かをくるくると弄んでいる。
「家を守る立場の者は家に害ある者を見定めなきゃならない。おわかり? 家の人が、外の人が、一般人が死んで責任とれる? ごめんなさいで済ませられる? 情と立場は混同しちゃいけない。阿苑も落ちたね。何度も血を啜ってきたこの鬼を許す気、あたしにはさらさらないわー」
「――なあ、家のこととかは今どうでもいいからさ。そいつのことを知ったかぶって語る前に、結李羽さんの件、先に片付けていいか?」
翅の言葉に、士はといえば、溜息。
「言ったでしょ。鬼なら――それが
「……あ、そう。なら――全力で奪い返す」
「お断り。うちの親戚は鬼にほとんど喰われてるんだけど」
「で? だから何? たかだかそれだけの理由で、お前は結李羽さんの存在を根本から勝手に決め付ける権利があるとでも? そりゃ大した器だな。調子に乗ってんじゃねぇよ」
また溜息。「面倒くさい」の一言に、隻は庭へと目をやる。
どこに――
「誰もこの人消すまでは言ってないんだけど。あたしの狙いは鬼。人消すのは古臭いし嫌い。――本音、あんたらの後ろの人消さないだけでも妥協してるんだけどね」
それはまさか、海理のことじゃ……。
ぞっとすると同時、千理の舌打ちが鋭く響いた。
「わーわーわーわーわーわーわーわー言いたい放題言ってくれちゃってんなろお」
万理の据わった目が、同意するように閉じられた。言い争うだけの体力も使いたくないと言いたげに。
「人に情念あるなら鬼にだってあるでしょーよ。
低い声音。士はほんの少しだけ黙り、呆れた顔で庭を見やった。
「それで? 学校に勝手に忍び込んで、人の領分越えたことは棚に上げる、ってわけ」
「何? あんさん聖人君主? はっ、ないわー」
いつきが吹き出すように笑い飛ばした。ご尤もだと言いたげに。
千理は怒りで完全に据わった目で士を睨みつけている。
「どうしても鬼消すって言うんなら先に忠告。既にそこで浮かんでるオレの
「ふーん。どうでもいいわ。その理屈に、隻先輩たちを抜きにしてる時点で甘ったれてるじゃない」
「言う言わねーはオレらが決めることじゃねーかんね。手前のせいで台無しのタイミングにされたんだっての。……結李羽さん、隻さん、さーせん。こっからはオレのエゴです。結李羽さん、鬼に喰われた後、融合しちまったんでしょ」
驚いた目が、一斉に庭に注がれた。隻は拳を握り締める。
幻生……に、近づいているってことか。
「幻術使いの血筋の影響でしょーね。憑依をずっとし続けた人が、自分の体忘れて同じようなことになっちまった事例もあります。大方小さい頃取り憑かれて、三年前の事故で血が目覚めた後、自分の状態に気づいたんでしょ。だから隠してた。やたらでかい威力の呪術ばっかり使えるのもそういう関係。違う?」
しばらく、沈黙が流れた。いつきが庭の四方に符を飛ばし、それぞれが角の柱に張り付くと、士を睨みつけた。これでいいだろうと言いたげに。
士が溜息をつき、羅針盤の上からどこからともなく数珠を引きずり出し、握り締めた。庭にへたり込み、立ち上がれないのか動かない結李羽が、突如現れる。
震えていた女性は、小さく頷いた。
「……なんで……言えばよかったのに……」
「――兄の声、今隻さんには聞こえないんで代弁します。『言って、人としての居場所を持ってる
目を見開いた。
隻も、結李羽も。
「『海理・N・レーデンは死んで、幻生が新たに生まれた。
海理が、そう言ったのか?
一瞬ためらいを見せた千理がはっきりと言いきる言葉に、隻は口を
「『誰からも見えてる奴の居場所を奪って何が残る。――分別なくしてんじゃねえ。人だって言い張って生きてきたんなら最後まで貫き通してろ。自分のものさし折って何測ろうとしてやがる』――兄乗っ取るなら先に言ってびびるから!」
ものさし……
結李羽へと目を向けた。俯いたままの女性は、肩を小さく震わせている。悟子が苛立ったままの目で士へと目を向け、すぐに結李羽へと視線を落とした。
「結李羽さん、隻さん。ぼくだって、半分は幻生の存在です。じゃあ、ぼくは人ですか? 幻生ですか? ヴァンパイアは人間? 幻生? 人魚は人? それとも魚?」
そんなの、人によって変わるものだ。けれど悟子は人間だ。
はっきりとした答えのないものを問われ、隻は声を出しそびれた。
悟子は平静な面持ちで二人をそれぞれ見据えてくる。
「誰に何を言われようとぼくは人間です。どっちかなんて、考えも答えも人それぞれでしょう。それなら自分の存在を決めるのは、自分しかいませんよ」
――きっと、そうだと、わかる。
わかるからこそ、自分の手に、爪ばかりが食い込んでいく。
結李羽がずっと抱えていたことにただ茫然としてしまったなんて……そんな自分が許せなかった。
高校の時ですらあれだけつらく当たったのに、手の平を返すようなことをしてしまったのに。それでも手を取って握って、笑ってくれたのは結李羽なのに。
三年前の事故から何が変わった?
あれだけ痛い目を見たのに。この前の春だって、目の前で亡くなる人も喪った人も見たのに。苦しんだのに。まだ自分は向き合えていなかったのか。
「隻さん。僕に言ってくれましたよね。曲がるなって」
見下ろしてきた万理は、曲がらなくて。
「あの言葉が、とても嬉しかったんです。
喉が持ち上がる。
「あの時隻さんにああ言ってもらってなかったら、今も後悔していましたよ。――理性を言い訳に、何をしてたんだろうって」
苦しそうな顔も、まだ治りきっていない心の傷をこじ開ける言葉も。万理ははっきりと口を開く。
「自分を疑わないでください。自分を騙さないでください。僕らは聖人君主じゃない。自分の選んだ道をここで曲げるんですか? 後悔しないためにうちに来たんでしょう?」
「隻さん。もう一回言います。これはオレのエゴです」
目を向けた隻に、千理が真っ黒な鋭い目で睨み下ろしてきた。
「手前の覚悟ぐらい手前で持って堂々と立ってくださいよ。シケたツラしてんなっつーんすよこのヘタレ! 手前がここにいる意味忘れんじゃねーやい!」
――本当だよ。
いつの間にか手の平の痛みが、熱に変わっていた。
「――いつき。札、もう剥がしていい」
「ちょっ――」
「はっ、遅すぎるぞバカが」
本当だよ
今すぐにでも自分を殴り飛ばしたい。殴り飛ばしたい以上に、したいことが、あって。
立ち上がり、結李羽の前にしゃがんだ。びくりと震える少女を抱き寄せて、頭を撫でる。
「ありがとな」
たった、その言葉だけ。それ以外、出なかった。思いつかなかった。
どれに対してのありがとうなのか、自分でもわからなくなっていた。なのに。
結李羽が震えて、すがるように泣いて。
確かに、彼女は人間として、ここにいてくれていた。