ひょいひょいとやってくるやつれた男性教員が、隻を目にした途端固まっている。
隻も思わず目を丸くし、その後笑顔で頭を下げた。
「お久しぶりです。在学中はお世話になりました」
「隻! よく来たなあ、元気か!」
やつれた顔で顔を綻ばせる男性教員は、隻が覚えている年齢よりも明らかに増えすぎの白髪頭で走ってくる。相変わらずくたくたの服はクリーニングにもアイロンにもかかっていなさそうな、ダメな独身男性を体現したままだ。隻は笑いながら頷き、「後輩が教えてくれて来ました」と返す。響基がそそくさと移動しにかかろうとしたのを捕まえ、糸川がやって来て驚いて響基を見ている。
「おや、友達か?」
「はい。俺今京都に行ってて。そっちで知り合った友人です」
響基が顔を輝かせ、思った以上の反応に隻は顔を若干引きつらせる。
「おいその顔どうにかしろよ、響基っ」
「わかった!」
「……わかってないよな」
「ははっ、元気いいなあ。いつもこいつがお世話になって。ありがとうな」
「いえいえこちらこそ」
「おいちょっと待て糸先、響基」
二人から笑われ、隻は苦い顔で「親の会話じゃないだろ」とむっとする。糸川に頭を力強く叩かれ、痛みに
「でかくならなかったなぁ結局。俺よりかはでかいか!」
「せっ、一言余計!! なんだよ会いに来たのに結局それか!」
「ははっ、いいだろ今さら改まるな
「あんたそれでも教師か毎度毎度!! バスケ部入って全国行って大学行ったけど中退して、それでも仕事ついてる!!」
「おお、上等上等! ん? お前大学志望まで心気変わってたのか。入った理由は?」
「……先生みたいに……」
ぼそぼそとこぼした隻に、糸川が朗らかに「ん?」と促してきた。うっと言葉が詰まって顔が赤くなる隻の気も知らないで、呑気な恩師へ
「教師になりたかったんだよ! ……いってえ、やめろ頭痛い!!」
力強く
公開処刑……!
「そっかそっか。お前がなぁ……でもお前の学力で何の先生になる気だったんだ?」
「国語以外出来が悪いのに今さら聞くかっ」
「そっかそっか。そうだよなぁ。くそうこの教師泣かせの色男になりやがって!」
「だから痛いって何度も言わせんな! いだっ! つぅっ……!」
軽快に笑いながら背中を叩かれ、思わず蹲る隻。近くにいたらしい男性教師が苦笑いを浮かべて見てきた。
「先生やりすぎですよ」
「あっはっはやりすぎちゃいましたね」
この恩師、悪びれる気配がない。響基が隣で笑いを
こいつら……っ!
「あれからどうだ? 元気にやれてるか?」
「そりゃ元気だよ……いってぇ……京都でこいつみたいな親友できたし、こいつらのおかげで隼との
いきなり頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、そのまま抱き締められて驚く。
「そっか……よかったなぁ……」
「……糸先加齢臭くせえ。いってえなやめろ!」
「ははっ、加齢臭は余計だ、四十過ぎたらお前も出るんだ諦めろ!」
笑って頭をまた強引に撫でられ、やっと放されてげっそりとする隻。ポジティブすぎる恩師は嬉しそうな笑みを見せてきて、段々と気恥ずかしくなってそっぽを向く。
「先生も元気そうでよかったよ」
「おう、
「
「おおー、よくわかったなぁ」
「嫌ってぐらいに覚えたよ! ダチに本気で当てはまる奴いて随分前に嘆いたよ!!」
「ああ、千理のアパート……」
響基が遠い顔で呟き、隻も渋面を作って頷いた。
そういえば片付けは進んでいるのだろうか。考えたくもないから、どうなっていようが気にしないでいよう。
「あっはっは。本当に元気だなあ。それで、こっちにはどのぐらいいる気だ?」
「一週間ぐらい。盆が終わる手前ぐらいに京都に帰るよ。一人体弱い奴がいるから、新幹線で押し
「そうだなぁ。
頭にまた手を置かれ、気恥ずかしさが止まらない隻は「おい」と口先だけ反抗する。響基が笑って「はい」と頷いて、隻も今日はこういう日なのかと諦めが勝った。
玄関まで見送ってくれた糸川に、自転車を押しながら、隻は振り返って笑った。
「先生、本当にありがとな。頑張ってくる」
「――おお。俺こそありがとう。後でメアドでも渡すから覚悟してろ」
「それ普通今だろ!? ああもう響基自転車頼む! 糸先赤外線出せ、今出せほら!!」
急いで戻る隻に、響基も糸川も盛大に笑った。
中学生たちからは、白い目で見られたけれど。
「耳がぁぁぁぁぁぁぁ」
「降ろすか」
「ごめんなさい! でも痛い、マジでキイイイイイイイイイイイインって、ブレーキ音が
「あいつずぼらだからな。うわ、これマジで
キィィィィィィィッ、ギギ。
二人乗りしているせいもあるのだろうが、それにしたってサビとブレーキ音が酷い。暑い中自転車を扱ぐのも一苦労で、途中で自販機で飲み物を買って、後ろで響基が飲んでふと笑っている。
「本当にいい先生だなぁ」
聞いた隻は目を丸くし、ふと笑んだ。
「すっごいバカみたいな理論の持ち主だけどな」
「それでも、その理論で今の隻さんがあるなら、凄くいいことだよ」
途端に黙る隻に、響基が笑った。再び扱ぎ始めて、角を勢いよく曲がって響基が悲鳴を上げ、笑い返す。
「途中ケーキ屋寄るか!」
「え!? ――ああ、うん。チョコケーキワンホール?」
「当たり。糸先には写真だけ送ってやろうぜ」
「ははっ、鬼だー!」
笑いながら道を走る。パトカーに発見されて注意を受けた時には素直に自転車から降りた。あまりにも急ブレーキを連発しすぎたのか、響基は足を押さえてついてくる。
ふと入道雲を見上げ、隻は乾いた笑いが出た。
「千理に連絡するか。あいつ傘持ってってないだろ」
「まだ雨降りそうな音はしてないけどなぁ……夕飯どうする? 隻さん」
「そうだな……自炊は俺だし……悟子はハンバーグ好きだろ? 響基はこんにゃくで……千理はもずくだのかぼすだの酸っぱい系で、翅は野菜だっけか。……いつきは?」
「あー、特にこだわりなかったと思うけど。なんせ好き嫌い言える体じゃないし」
確かにと思いつつ、それならと考え――ふと思い至るもの。
「焼肉するか」
「お、行く?」
「ああ。
「ご馳走様です! ――って言いたいけど、泊めてもらってるんだから俺たちも出すよ」
「は? いや、いいよ別に。掃除も手伝ってもらったし、旅費も各自で出してるだろ」
「うーん、そうなんだけど。いつきはまず怒ると思うよ……?」
「なんで?」
「……言いたくないけど、収入格差の意味で」
……一番耳が痛いことを言われた。あの中で一番新参者だし、仕事どころかまだ訓練止まりなのは自分だけれどもだ。
響基が財布の心配をしてくれるのは嬉しいが、立つ瀬がない。
……財布の心配をされないぐらいに強くなりたい。なんて考えるのは、不純か。
「あと、千理の胃袋がおかしいから、やっぱり割り勘がいいと思うんだ」
「ああ、千理は自腹で出せって言う気だった」
響基がぷっと吹き出していた。「それと」と隻も笑いながら付け足す。
「もうさん付けしなくていいよ。翅たちにも言う気だけど――なんか落ち着かないんだよな」
響基がまたも目をきらきらと輝かせていて、隻は目を何度も瞬かせた。
……俺、もしかして脱水症状起こしてるか?
「じゃあお言葉に甘えてそうする。隻さんで慣れちゃったからしばらくはどうにもならないかもしれないけど。だからバスケットボールは勘弁して」
「っち」
「あれやる気満々!?」
言葉の割に嬉しそうなままの顔に、思わずつられて笑ってしまう。
――帰ってきてよかった。本当に。
こんなにも嬉しいことが続いて、わいわいと気楽に騒げて。
まだこんな夏が一週間も続くと思うと疲れが心配だけれど、この際気にしてなるものか。
「今日は焼肉で――明日の朝はパンにするか。皆腹重たくなるだろ」
「うんうん。昼は冷やし中華?」
「だな。暑いし……流しそうめんって手もあるけど」
「え、あるの!?」
「昔あの狭い庭で隼と取り合ったぐらいには」
「ははっ、翅と千理と隼さんで三つ
隻は思わず吹き出し、笑い飛ばした。
三人で
ついでにあと十日ほど早い翅の誕生日祝いのケーキの分割でもめる図も、綺麗に想像できた気がする隻であった。