首を振る少女。レリオスは再び口を開こうとするも、彼女の方が早かった。
「いやだよ、わたし一人だけここに残るなんて絶対いや! わたしだけ役に立てないなんていやだよ、またみんなが死んでいくの、目の前で見なきゃいけないだなんて――そんなのいや! レリオスさんだって目の前で一度殺されたじゃない!」
「ベルタ!」
ルフの声が鋭く飛んだ。
飛んだけれど、レリオスには聞こえていなかった。
――死んだ?
そんなの、知らない……どういう……?
「まだそんな馬鹿な事言ってるのか! レリオスは今ここで生きてるだろ!」
「本当だよ、知ってるもの! レリオスさんが心臓を貫かれたの、まだ覚えてるんだから! 何度も言ってるじゃない!」
父親にまで噛み付くように声を荒げるベルタは、今度こそ涙が頬へと伝わり、途中で風に弾き飛ばされた。
思わず、自分の手をゆっくりと見る。
何の変哲もない、見慣れた白い肌。
頚動脈に手を当てる。
確かに、動いているのに。
「ベルタ、どういう事なの? レリオス、生き返ったって事?」
ウィシアの不安そうな問いに、レリオスは思わず顔をそらしたくなった。
甦るだなんてそんな技術、天恵魔術には存在しない。〈
ベルタの無言の肯定に、レリオスはどう返せばいいのか分からなくなる。
「本当に覚えているもの……いっぱい血を流して倒れてくレリオスさんの事、忘れられるわけないじゃない。その後どうやってレリオスさんが助けられたのかは知らないけど、剣で刺されたレリオスさんが、傷口に〈天恵の魔石〉を埋め込まれて苦しそうにしてたの、覚えてるわ」
「埋め込まれた?」
思わず尋ね返すレリオスは、無意識のうちに胸を押さえていた。
確かに脈打つ心臓が、肋骨の下に眠っている。そのはずだ。
傷跡にも覚えがないレリオスには疑問が残るばかりの過去に、彼はただ、それ以上言うために口を開く事は叶わなかった。
ルフもレーゲン夫妻も、ひたすら苦虫を噛み潰したような顔をして沈黙している。
ベルタの話はこうだった。
当時幼かったレリオスとベルタは、現領主の部下に捕らえられた。薄暗い部屋に連れて行かれ、最初はお菓子などを与えられて機嫌も取られ、捕らえられた事は当時のレリオスしか把握していなかったという。
そうやって数時間ほど過ぎた辺りで、急にやってきた武装済みの誰かに、レリオスは呼びつけられて立ち上がった。立ち上がった傍から剣を抜き放たれ、心臓を貫かれたという。
〈天恵の魔石〉が埋め込まれたのは、そのすぐ後だったのだそうだ。
「レリオスさん、貫かれて少しの間は意識があったけど――〈魔石〉を埋め込まれるまで気を失ってて、埋め込まれたら今度は苦しみだしてたの。しばらくしたらまた動かなくなって、わたしが近づいてみたら、ちゃんと息をしていたから眠ったんだと思った。 その後よ、おじさんが助けに来てくれたのは。ずっと動かないレリオスさんも、もう傷は塞がってたから、何も気づかなかったみたいだけど……」
「貫かれたはずはないと何度も言ったはずでしょう」
ルフの溜息が聞こえてくる。
「もしそうなら、血のにおいが残っていたはずですよ。どこにも血の跡なんて」
「元々あったものを移動させたり、消してしまう天恵魔術ならあるよ」
ウィシアの青ざめた顔。
――機械のように自分に飛び込んでくる情報を遮断できれば、どれだけ気が楽だっただろう。
「においまでは分かんないけど……でも、転移や空間系の天恵魔術なら、あるよ」
「けどあの時ボクの鼻は――いえ、ヒトの姿の状態では……当てになりませんが……」
――父さんがこの街から出て行かざるを得なくなった本当の理由が俺なら?
あの時のタチィの驚愕の言葉の本当の理由が、自分が捕まっていたからだとしたら?
そして死んだとベルタが彼ら夫妻に伝えていたのなら、あの反応は――
ルフが外を確かめ、首を振っている。
「今日はもう休みましょう。……今この話をするべきじゃありませんでしたね」
外から聞こえる小さな音。
それはテントの上に。
静かに、そして何度も降り注いできた。
†
ずっと、全員で隠していたのだろう。
いやという程に分かる。人の嘘には敏感だから。
ルフもあの後から声を交わしていないし、ウィシアは自分とベルタを気遣わしげに見やるだけ。タチィとセシリアの夫妻も、ベルタも。気まずげに自分と目を合わすのを避けているように感じる。
聞くべきだろうか。過去を知るために。
聞かないべきだろうか。全員のために。
食い違った過去の記憶のパズルを正しくはめ直すその行いは、今ここで必要だと自分は判断できるのだろうか。
――分からなかった。あの地下拠点の後から、どんどんと物事の判断をどうつけていいのか分からなくなってきているのだ。
これが感情なら、今までの方がマシだったのかもしれない。
必要か、必要でないか。その区別がすぐさま決定されるだけの、有か無かだけの世界。
そんな無彩の街に疑問を持って、けれど疑問に持った事で世界に戸惑いが生まれるだけなら、必要なかったのかもしれない。
過去を思い出しても、父親の姿はおぼろげなままなのだから。
その父親の姿だって、息子を探しに来る気配すら、ないのだから。
「レリオス、いい加減寝ますよー」
ルフの間延びした呼びかけに答える気にもなれず、レリオスは言葉を返さなかった。今までずっと隠してきたルフの言葉に、今までどおり従っていいのかも分からない。自分も隠し事があると分かっていても、乾いたばかりのかさぶたのように、はがれない何かに邪魔をされているようで。
生い茂った草は、自分が少し動くだけでも音をどこかへと運ぶ。
こんな中にずっと暮らし続けてきたレーゲン一家に、レリオスは純粋に疑問しか湧かなかった。
いくら隠れるために、領主に見付からないためにと言っても、やっぱりここでずっと生活し続けるには理由が足りない気がしたのだ。
それこそ、亡命という手もあったはず。
「寝ると言っているのが聞こえないんですかねぇ、レリオス」
真後ろからの声に、レリオスはようやっと振り返った。呆れたというより、困ったような顔をするルフを見るのは、初めてだった。
「考え事ですか? 分からなくはありませんが……ベルタの言った事は忘れなさい。いいですね」
忘れろと言われて、確かに今までなら忘れられただろう。けれどレリオスは首を振った。
「前、俺が〈魔石〉を捨てた後も〈魔石〉を持っていると言っていただろう」
「……まあ、そうですね」
隠す事も出来ないと悟ったのか、ルフは静かに頷いてきた。
「確かに〈天恵の魔石〉の気配をレリオスが持っているのは感じました。ですがね、埋め込むと言うのは容易ではないんですよ。仮に埋め込んで〈天恵の魔石〉を用いて傷の修繕を図ったのなら、少なくともレリオスの体には〈魔石〉による〈
「……〈魔化〉?」
どう言おうか迷ったような、そんな顔をルフがするのも、本当に珍しかった。
「――ごまかしても他の誰かが教えるでしょうね。早い話、〈魔石〉と体が同化してしまう現象です」
〈
彼らは〈天恵の魔石〉を持ち、戦う術を見出した後、ひとつの考えにたどり着いた。
〈魔石〉が自分たちを強化するのであれば、取り込む事も出来ないか。
〈魔石〉に触れれば弱体化するヴィオス族は猛反発した。そんな考えを持つのは、人間やそれに付き従うアンドロイドぐらいだったのだ。
機械であれば、機械人形であれば〈魔石〉は確かに欠けた部分を補う役割を果たした。だがそもそも生き物の体には毒だと言う事を、ヴィオスは知っていたのだという。
「ボクらの祖先の多くは、〈隕石〉の放つ魔力に耐えられず、死に絶えたといいます。衝突による粉塵が作り出した冬で死んだわけじゃないんですよ。だからボクらは、人体に用いるなと強く主張してきました。他の種族だって、ほとんどは聞き入れてくれたんですがね……」
人間とアンドロイドは、別だったという。
「それでも他の種族の働きかけにより、そういった実験は一切執り行われない協定を結ぶに至りました。その協定を破れば、人間は他の種族から手痛い仕打ちを受ける取り決めになっていますから。ディードも、そこまでは……」
「……毒になるというのは、具体的には?」
「――〈魔化〉が起こり、〈魔石〉と同化してしまった体は、魔力を〈魔石〉以上に集めやすくなります。生きているものが媒体となるのは、無機物よりも魔力を集めやすくなるんですよ。やがて――〈魔石〉になります」
沈黙が耳を圧迫した。
暗闇に紛れ込んだ草が擦れる音も、どこかにいるのではと願いたくなる鳥の鳴き声も、全て無くなった世界で。
ただ、沈黙が耳を圧迫して、圧迫する分心臓の鼓動を鼓膜で跳ね返している。
「十年か、二十年かは分かりませんが……少しずつ、〈魔石〉の周りから同化していくんですよ。だから辻褄が合わないんです。レリオスの心臓に埋め込まれたのなら、レリオスの〈魔化〉が既に始まっているなら、レリオスの心肺はもう停止していておかしくないんですよ……あれから何年経っているか……」
狼狽したようなルフは、本当に初めて見た。
同時に、何かにすがるような思いも混じっているようで。
「……もし本当に埋め込まれていたら、どうするんだ」
しばらく無言になったルフは、首を振った。
「考えたくもありませんよ……あいつがそんな真似をするはずはありません。ないんです……」
弱い呟きだった。
まるで、祈るような。
「ルフ、なんて?」
見張りをベルタの父タチィと交代しにいったルフと離れ、ひとり戻ってきたレリオスに、ウィシアが話しかけてくる。まだ起きていたのは次の見張りが彼女だからだろう。
どう話していいかも分からず、レリオスはようやっと吹いたらしい風が運ぶ葉の音を聞き流して。思い出したように口を開いた。
「俺に〈魔石〉が埋め込まれているのはありえないそうだ」
「――それって、〈魔化〉が起こるから、だよね」
ウィシアも知っていたようだ。レリオスは眠り込んだらしいベルタに注意を払いつつ、小さく頷いた。暗い中でも、アンドロイドであるウィシアには簡単に分かる仕草だったようだ。
「あたしもそう思うの。正直、転移系の天恵魔術を使っても、ルフが言うとおり血のにおいまでは消せないの。人間でも血のにおいには敏感でしょ? ……やっぱり無理がある気がするんだ。それより、傷はどう?」
「もう痛みはない」
深くは無かったらしい傷口に手をやろうとして、レリオスは中途半端に止めた。
レーゲン夫妻からもらった当て布で、いつ傷口をごまかそうか。それを必死に考えていた。
テントの中、仰いでも見えるのはその布地だけ。
視線を向けても、見えるのは真っ暗な中にぼんやりと浮ぶウィシアの顔。
――ここにいる人以外に、自分の事を知っている人がいるのなら。
全て、聞けたのかもしれない。