全速力。
茶色の猫がレリオスの足元を疾走して来た道を一目散に引き返し、オレンジ色の髪の少女がらんらんとした笑みを浮かべ、元気よくその跡を追う。
「――ルフ、苦手なんだね。あの子」
「そうらしいな」
猫の悲鳴が延々と木霊して。
どうやって逃げ切ったのだろうか。茶色の猫が必死の形相で、全力疾走で引き返してきた。そのままレリオスの肩目がけて飛び上がり、さすがに居た堪れなくなった彼はルフの逃げ場になってやる事に。滑りやすいはずの革ジャケットに器用に飛び乗った猫は、全身を震わせている。
……意外と猫の体温というのは温かいようだ。
普段ならむしろ見捨てる所だが、レーゲン夫妻の所でルフの扱われ方も、扱い方も見てきたためか、なんとなく気持ちが分かるようになったようだ。レリオスは小さく溜息を漏らす。
オレンジ色の髪の少女は思った以上に背が小さくて、レリオスの肩にすら手が届かない。十二歳頃のように見える。
「あーんっ、ルフお兄ちゃんちょうだいっ。降りてきてよー、久しぶりのぎゅーしたいのに!」
全身を震わせ、毛を尻尾まで逆立てて、ついでにレリオスの上着に爪を食い込ませる勢いを見せて必死に首を振っている猫を、どうして引き渡せるだろう。それこそ保健所に連れて行くよりも、拳銃を向けるよりも動物虐待に思えてならないのに。
ついでにそんなルフを見て、何故ウィシアまで羨ましそうな顔をしているのだろう。
「いいなぁ……」
「何がだ」
「ルフ、猫になったらかわいいもん。肉球……」
「ニャーッ!」
耳元で絶叫。
レリオスは耳を塞ぎたくても塞げない状況で、顔をしかめるしかできない。
「……ウィシア。こいつの服を回収するか、こいつの安全を確保するか。どっちがいいか」
「安全!」
「シャーッ!」
元気な挙手を見てさらに毛を逆立てるルフ。爪がついにジャケットに食い込み、痛みに思わず顔をしかめる。
「……うるさいぞ。ウィシア、ルフの服を頼む」
「えー……了解」
抗議を飛ばしつつも衣服を拾いにいくウィシアは、結構に慣れた様子だ。……彼女の元主人は男だったのではなかろうかとも感じる。
そんな
「そろそろ追い掛け回すのは諦めろ。――面倒だ」
「えー。……分かったから、ルフお兄ちゃんちょうだい!」
「分かっていないだろう」
「パティ! お前が一番単純やないか!」
「あんな簡単な暗号でライフル下ろしちゃうトントンよりはいいもん! お兄ちゃん降りてよーっ!」
「シャーッ!」
「トントン言うな言うとるやろがワレ!」
……収集がつかない。
何故だろう。目が勝手にあらぬ方向を見て、勝手に息が漏れたのだった。
「ルフ! よく無事だったな!」
「へえ、レリオス大きくなったなあ。本当によかったよ、二人とも」
パティと、トントンことトラントの姉弟に手を引っ張られ続けた先で、こんなに歓迎されるとは思わなかった。トラントは姉の言動に終始不満そうで、隣を歩いていたウィシアに愚痴をこぼし続けていたけれど。
元々は管理用通路だったのだろう通路の分岐点。そこより延びる梯子を上れば、見覚えのある部屋に着いていた。大人が広々と大の字になって寝ても、五十人近くは収容できる大きなスペースだ。おそらくは過去の戦争か何かの際に作られた地下シェルターだろう。
その中に、ざっと見て三十人弱だろう。浅黒く焼けた肌や、逆に白すぎる肌。様々な髪色の人々に迎えられ、レリオスは戸惑っていた。
同時にルフが猫のまま不機嫌そうな様子で尻尾を揺らし、頭を撫でられているのを間近で見るのも面白かったけれど。
「……ルフ」
説明を頼みたくて呼んだのに、ルフはまるで知らん振り。不機嫌な様子で髭と尻尾を揺らしている。
仕方なしに猫を近くの男性に渡しつつ、レリオスはウィシアと顔を見合わせる。そうすれば、近づいて来た女性が笑いながら肩を叩いてきた。
「なんだい、十年も経って忘れちまったのかい? 随分と男前になったのに、つれないねぇ」
「……いや……その……」
「ははっ。その反応、十年前と変わらないな!」
背中を叩いてきた男性は、それこそ二十歳を超えたぐらいだろう。白い肌に蒼い目、寝癖を直し忘れたような撥ね方の金茶髪。
見覚えがあるかどうかすら分からなくて、戸惑いながらウィシアに視線を向けても、やはり顔に出ないせいだろう。気づいてもらえた様子がない。すっかり安心したように、何故か目を潤ませて微笑んできてさえいる。
「覚えてないか? 僕だよ。アルセ・イレクス。よくお前に会いに行ってただろ?」
「アルセ……?」
思わず眉を潜めて記憶を辿るも、十年前と言えば自分は九歳。おそらく相手も同じぐらいのはずだから、声が変わってもいれば姿も面影を残していない。さすがにこれでは思い出しようがない。
「アルセ兄ちゃん、そいつ記憶喪失らしいで」
ボサついたオレンジ髪のトラントが不機嫌に返す。アルセが驚いたように目を丸くし、苦笑いを返してきた。
「そっか。お前は上にいたんだったな……無理ないか。お前の父さんと母さんは、あの後どうなったんだ?」
「父は行方不明だ。……ルフの話だと、街を追放された。母は感情と記憶両方を奪われている」
話が聞こえていたらしい一同が、しんと静まり返った。アルセと名乗る青年も顔が引きつっている。
「まさかお前も」
「ああ。十年前以前の記憶がない」
無表情なままの声で返せば、アルセの手が肩から離れた。
――意外と寒かった。ウィシアもルフも、自分の肩に手を置いてくる事はなかったし、ルフが先ほど肩に乗った時も、温かくて不思議な感じがしていたのに。
「そ……そっか……おじさんとおばさんまで……」
誰かが壁を殴った音が聞こえた。すぐに胸元へ褐色のごつい手が伸ばされ、急に揺すられて体が強張る。
「アブルさんの消息は聞いてないのか!?」
「落ち着きな、マーフ」
先ほど声をかけてきた中年女性が、髭面の男性を抑えた。痛々しそうな表情を見て、レリオスは思わず視線を下へそらす。
「一番辛いのはこの子だろうさ。上であの領主にどんな事を伝えられたにせよ、それを感じる感情を奪われてるんだろう? 辛いという事も分からないんだよ。あたし達みたいに、泣いたり怒ったりできないんだ。それなのにこの子に責め立てて聞くのは間違いってもんじゃないかい」
肩をまた、優しく叩かれる。
背の低い女性は、自分の前にしっかりと立って。やや潤んだ瞳でレリオスの目を見て。両肩をしっかりと掴んで、優しく叩いてきた。
「お帰り、レリオス。あんたが生きていてくれて、ルフと一緒に帰ってきてくれて本当によかったよ。一緒にリシェルを――あんたの母さんを救う方法を探そうね。
本当、随分と大きくなったねぇ……」
見えない力が喉を小さく締めつけた。
口が開かなくて。何も言えなくて。
そうやってただ黙り込んでいる自分を、優しく抱き締めてくれる。
栗色の髪の女性――おそらくは自分やアルセより少し年上だろう――が、目を潤ませて微笑んでくる。
「本当ね。泣けないの……辛いよね」
――泣くなんて、必要なのだろうか。
ベルタが泣くのを堪えて叫んでいたのを思い出した。
街の外壁のテラスにて、ウィシアが自分を見て泣いていたのを、思い出した。
悲しくて、泣くのなら。
悲しみは要らないのだろうか。
辛くて、泣くのなら。
辛さはない方がいいのだろうか。
それなら、さっきのウィシアの表情は?
あの女性の、そして年が近いらしいこの女性の表情は?
……分からなかった。
分からないのに――
「レリオス……?」
呼びかけられて振り返れば、ウィシアが不思議そうな顔をしている。
その顔が、徐々に驚きに包まれて。
でもその顔も、すぐにぼやけて見えなくなって、また鮮明になって。
鮮明になった先、確かにアンドロイドの少女が口元を手で覆って泣いていた。
「レリオス……!」
また少し視界がぼやけて、鮮明になって。
ひたすら熱い目は、やがてウィシアに抱きつかれた衝撃で瞬きして、落ち着いた。
「よかったあ……! レリオス……よかったよぉ……」
突然の出来事に頭がついていかなくて。
けれど、周りまで何故か、何人も泣いていて。
アルセが肩を叩いてきて、振り返った。
とても親しみのこもった笑みが、温かくて。
「感情、奪われてないじゃないか」
よく分からなかった。何かを言う前に、アルセがまた肩を叩いてくれる。
「お前泣いてるんだよ、今」
ルフが、泣く事をかなり抑えていたのを知っている。まるでそれが恥だと言うように、何度も何度も。
けれど。
この場にいた誰もが、それを恥じているようには見えなかった。
アルセに置かれていない方の肩に、軽く衝撃が走って振り返る。
茶色の毛にエメラルド色の瞳の猫が、ほんの少し髭を揺らすと器用にバランスをとって背を丸めている。
やがて落ち着くように、その宝石のような目を閉じていた。