機能回復訓練を終え、退院の許可を頂いた私は蟲柱である胡蝶様と入院中の世話をしてくれたアオイさん達に礼を伝え、蝶屋敷の門を潜った。
胡蝶様とはこれが初対面というわけではなかったが、杏寿郎さんの元へ嫁いでからお会いするのは初めてであった。そのため婚姻までの経緯や夫婦生活などを入院中に根掘り葉掘り聴取されてしまった。以前までの私であれば胡蝶様のこのような問いにも淡々と答えていたであろう。しかし今は違う。杏寿郎さんの底抜けの優しさ触れ、少しずつ彼に惹かれつつある私は彼女の問いに顔を茹蛸のように真っ赤にして答えた。あの時の胡蝶様の楽しそうなお顔ときたら…。

隣を歩く杏寿郎さんをちらりと見やる。
まさか退院の迎えにわざわざ蝶屋敷まで出向いてくださるとは思ってもいなかった。杏寿郎さんが迎えに来られた時、たまたまその場に居合わされた胡蝶さんはそれもうとっても楽しそうな表情を浮かべられていたものだ。聞くと杏寿郎さんは今朝方任務から帰ってこられたそうである。「今日邸に帰ってくると聞いて居ても立ってもいられなく、迎えに来た!」と胡蝶様の前で大変な声量で仰るものだから、嬉しいよりも恥ずかしさが勝ってしまい私は顔から火が出そうなほどその顔を真っ赤に染め上げてしまった。追い打ちをかけるように胡蝶様から「大切にされてますね」と耳打ちされた時には沸騰したやかんのように湯気が出そうであった。

お疲れであるはずなのにこうして肩を並べて煉獄家へ帰れることが何より嬉しい。家で帰りを待っていてくださっているという千寿郎さんに会えるのも随分と久しい。今日は私が腕によりをかけて美味しい夕餉を作ろう。

ふと杏寿郎さんが持たれている入院中の荷物が入った風呂敷が目に留まる。決して彼に持たせてなるものかと強く心に決めていたはずであるのに、気が付けば風呂敷はすでに彼の手中にあった。そこからはもう何を言ってもダメで、杏寿郎さんは断固として風呂敷から手を離さなかった。

「杏寿郎さん。やっぱり私もそれを持ちたいです」

「む!それは駄目だ!退院できたとはいえ、名前はまだ全快ではないのだぞ!これは俺に任せなさい!」

予想通りの返答に思わず頬が緩む。くすくすと笑う私を不思議そうに首を傾げて見やる杏寿郎さんが失礼ではあるが、とても可愛く見える。
そこで私はある一つの提案を彼に投げかけた。

「では半分こしませんか。私と杏寿郎さん、二人でその風呂敷を持ちましょう」

「二人で?」

「はい。そうすれば互いに気を遣わずにすむでしょう?」

そうして杏寿郎さんが持つ風呂敷の結び目に手をかけると彼は大きな目をぱちくりぱちくりと数回瞬かせたが、直に愉快気に笑った。

「よもや!そのような名案があったとは!名前は賢いな!」

どこかこそばゆく、しかし満たされるような気持ちで雲一つない晴天の下を二人同じ歩幅で歩く。邸までの道のりはもうすぐ。少しでも長くこうして杏寿郎さんと共に歩いていたいと思った。

もしかするとこれが幸せという気持ちなのだろうか。

* * *


「今日はよろしくね、名前ちゃん!久しぶりにお会いできて嬉しいわ!」

「お忙しいところわざわざ申し訳ございません。本日はどうぞよろしくお願い致します」

「もう!そんなに堅苦しくなくて大丈夫よ!」

可愛らしい桃色のおさげが彼女の動きに合わせてぴょこぴょこと揺れる。今日は恋柱である甘露寺様が煉獄邸へいらっしゃっている。杏寿郎さんとの約束であるパンケーキの作り方を教えに来てくださったのだ。退院してから数日経っても未だ全快には至らず、なかなか任務に復帰できず肩を落とす私が少しでも気分転換できるようにとの杏寿郎さんからの心遣いであった。
約束の時間に現れた甘露寺様が大層大きな荷物を抱えていらっしゃった時は度肝を抜かしてしまった。一体何人分の材料に相当するのだろうかと問いかけた私に彼女は「ざっと計算して三十人分くらいかしらね」と弾けるような笑顔で答えた。まったくの規格外である。杏寿郎さん、千寿郎さんと槇寿郎様、そして私と甘露寺様を合わせて五人分を遥かに上回る量に仰天していると彼女は照れくさそうに「私が二十人分くらいは食べちゃうから…」と仰った。甘露寺様がたくさんお食べになられることは以前から存じ上げていたが、想像以上である。一体その女性らしい体つきの何処へ収まるというのだろうか。
甘露寺様を台所へお連れすると早速彼女は荷物を解き始める。卵に牛乳、そして甘露寺様自家製の素蜜。どんどんと並べられていく机から零れんばかりの材料に、そういえばと声を疑問を投げかけた。

「甘露寺様、杏寿郎さんは二人分欲しいと仰っておりましたが、残りの五人分は一体どうなさるおつもりなんでしょうか」

「え!それは…えっとね」

「?」

甘露寺様が二十人分召し上がられるとして、残る五人分の内訳がどうにも合わない。杏寿郎さん、千寿郎さん、槇寿郎さん、私。杏寿郎さんから二人分の要望は頂いていたのだが、残りの五人分の行方はどうなさるおつもりなのだろう。
私の質問に頬を紅潮させる甘露寺様を前に聞いてはいけないことだっただろうかと不安に襲われる。困らせるようなことを伺ってしまったと急いで詫びを入れようとすると彼女が恥ずかしそうに呟いた。

「伊黒さんにあげるの…。いつもとってもお世話になってるからお礼も兼ねて」

「蛇柱様に?」

「そうなの!でも誰にも言わないでね!内緒にして驚かせたいの!」

まさか蛇柱様と甘露寺様がそのような関係であったことは意外であった。目の前で頬を染める甘露寺様はとても可愛らしく、蛇柱様を想われるお姿は恋をする乙女のようで微笑ましい。柱とはいえ、彼女も年頃の娘である。想い人がいらっしゃっても何ら不思議なことではない。
蛇柱様への贈り物が無事に成功するためにも今日は頑張らなくてはと一層気合が入る。
それにしても蛇柱様がたくさん召し上がられるお方だったとは。失礼かもしれないが、食が細い印象であった。それともいつもお連れになっている鏑丸様が召し上がられるのだろうか。

「伊黒さんって本当に食が細いの!だからたくさん食べてもらいたくて!」

なんと。やはり予想通り食は細くいらっしゃった。それにしても食が細い蛇柱様にパンケーキを五人分差し上げるとは些か不安を感じるものがある。甘いものはそう多くは食べられないだろう。

「喜んでくれるといいなあ」

嗚呼、蛇柱様も甘露寺様のこの可愛らしい顔を見られたらきっと完食なされるに違いない。恋する乙女はいつでも無敵である。

しばらくして甘露寺様と他愛のない話で華を咲かせながらパンケーキを作っていると鍛錬に励んでおられた杏寿郎さんがひょっこりと顔を見せられた。

「よく来てくれたな、甘露寺!作業は順調だろうか!」

「煉獄さん!お邪魔してます!名前さんのおかげでパンケーキは順調ですよ」

手拭いで汗を拭いながら私の隣に並ばれた杏寿郎さんが今か今かとパンケーキの完成に目を輝かせる。まだもう少し時間がかかることを伝えるとしょんぼりと眉を下げられる杏寿郎さんの姿に甘露寺さんと二人で頬を緩める。

「腕によりをかけて作っていますので楽しみ待っていてくださいね」

「勿論だ!そうだ!パンケーキを食べた後、三人で鍛錬をしよう!」

「賛成です!よーし!鍛錬に備えてたくさん食べちゃうわよー!」

穏やかな昼下がり。いつまでもこの心休まる時間が続けばいいのにと願わずにはいられない。