玖
誰かに名を呼ばれる声に深く沈んでいた意識が覚醒する。ゆっくりと瞼を開けるがあまりの眩しさに思わず、すぐに目を閉じてしまう。眉を顰める私の目元に温かい大きなものが添えられ、少しずつ震える睫毛を上げた。「ようやく目を覚ましてくれたな、名前!」
「きょ、うじゅろうさん…」
一番に目に飛び込んきたのは心配そうに私の顔を覗き込む杏寿郎さんの姿であった。状況が理解できず視線だけで辺りを見渡すと、ここが蝶屋敷であることがわかった。なぜ自分が蝶屋敷で目を覚ましたのかと考えるもぼんやりとした意識ではまるで答えが見つかりそうにない。
ふと右手に先程目元を覆っていたものと同じ温かなものを感じた。ゆっくりと見やるとそれは杏寿郎さんの手であった。
そこで漸く私は先の任務で負傷し、意識を失っていたということに気が付いた。ハッと目を見開き、急いで起き上がろうとするもそれは杏寿郎さんによって制止される。私の視線と交わった彼の瞳にはいつものような燃えるような輝きはなく、どこか不安気な橙色が揺れていた。
「まだ傷が塞がっていないのだ。動くんじゃない」
「同行した隊士達は無事でしょうか…」
「君のおかげで誰一人として命を落としてはいない。心配するな」
指揮を執らねばならない存在の私が負傷したことで隊士達には大変な混乱を与えてしまっただろう。隠たちへの引継ぎも終わっていないあの状況で情けないことこの上ない。いつもそうだ。私は兄のように完璧に任務をこなすことができない。今回の失態が父の耳へ入れば、きっとひどい叱責を受けることになるだろう。自業自得とはいえ、父の姿を思い浮かべると胸が詰まる。
「心配するな。君の父君に今回の件は伝えてはいないぞ」
杏寿郎さんが優しく目尻を下げて傷だらけの私の頬を撫でる。じんわりと肌に伝わる杏寿郎さんの体温がすっかり冷たくなっていた私の頬に溶け込んでいく。
「鎹鴉が伝令に向かおうとしたようだが俺が止めさせた。ただこのような大怪我だ。ご家族の誰も知らないということはあまり良くないだろうから、母君にだけは文を届けてもらった」
俺からしっかりと書いておいたから何も心配することはいらない、と杏寿郎さんは私に告げた。
気を遣わせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになるも、父に今回の件が知られないように手を回してくれた杏寿郎さんの心遣いにスッと胸が軽くなる。
礼を伝えるために今度はゆっくりとその身体を起そうと試みる。痛み止めが投与されているとはいえ、身体を動かすことによって生じる鈍い痛みには思わず眉を寄せてしまう。それでもすぐに杏寿郎さんが背中を支えてくれたことで、なんとか私は身体を起こすことができた。
「ありがとうございます。そしてこのような事態になってしまったこと、本当に申し訳ございませんでした」
「名前が謝ることではない!君は立派に責務を全うしたのだから夫の俺も誇らしく思う!」
「けれど…」
「それ以上詫びることは許さんぞ」
いつもは穏やかな杏寿郎さんの声音に僅かな戒めが滲む。まだまだ詫びなければいけないことがあったのだが、彼の纏う雰囲気から察するにこれ以上詫びることはできそうにない。致し方なく口を噤むと杏寿郎さんは腰かけていた見舞い用の椅子から立ち上がり、私が座るベッドの方へと腰を下ろし直した。
「同行した隊士達に聞けば、鬼は君が一人で討伐したそうじゃないか」
「彼等の手には負えそうもない鬼でしたので被害を最小限に留めるためにも私が請け負ったのです。何人もの人間が鬼と共謀し、その鬼を守るように傍におりましたので、彼等にはそちらの方と雑魚鬼の討伐を任せました」
「よもや!その適格な状況判断が誰一人として犠牲者を出さなかったのだな!」
本当に私以外の負傷者が出なかったことが幸いである。応援に到着するまでに何人もの犠牲者がでていたことを知っていたので、これ以上の犠牲者をだすことだけはどうしても避けたかったのだ。私が下した判断が正しいものであったかどうかわからなかったが、こうして杏寿郎さんが認めてくださったことでその判断が正しいものであったと思うことができた。
今回の任務は人間が共謀して多くの犠牲者を出していたので、間違いなく重要案件として扱われることになるだろう。報告書の提出も急がなければならないので、いつまでも蝶屋敷でお世話になっている場合ではない。ある程度身体が動かせるようになればすぐに退院の許可を頂こう。
私が入院している間、屋敷のことを千寿郎さんに任せっぱなしになることが非常に心苦しい。きっと彼にも要らぬ心配をかけさせてしまったことだろう。杏寿郎さんの身の回りのお世話もこの身体では当分できそうにない。一日でも早く機能回復訓練に入り、屋敷に戻れらねば。
「杏寿郎さん、暫くご不便をおかけしますがすぐに屋敷へ戻りますのでそれまで…」
「俺は名前を妻としては勿論だが、鬼殺隊の隊士としても誇りに思う!」
突然の杏寿郎さんの言動に思わず肩が跳ね上がった。今の声量は下手をすれば蝶屋敷中に響き渡ってしまったのではないだろうか。元々大きな声をしていらっしゃる杏寿郎さんではあるが、今の声量はいつもの倍以上であったように思う。驚いて唖然とする私をよそに杏寿郎さんは言葉を続けていく。
「名前は自分のことを弱い弱いと言うが、決してそんなことはない!」
「杏寿郎さん…」
「もうこれ以上自分自身のことを卑下するな。名前は強い!俺が保証する!」
兄の背中を追い続けた人生だった。世のため人のために刀を振るう兄に焦がれ、いつか兄に追いつき、父に認めてもらおうと鍛錬を続けた毎日。目標であった兄が殉職して以来ぽっかりを胸に大きな穴が開いてしまったことに気付いていたが、ずっと目を背け続けていた。向き合ってしまえば、己の弱さを露呈することになるとわかっていたからだ。
それでも、杏寿郎さんは私のことを強いと認めてくださった。ずっと否定され続けていた私を肯定してくださったのだ。
ぽろりと涙が零れ落ちる。堰を切ったかのように次から次へと零れ落ちる涙。人前でこのように泣いたのはいつぶりだろうか。これまではこの涙を拭うのは自分だけであったが、今はどうだろう。私の目の前には杏寿郎さんがいて、止まることを知らない涙をまるで壊れ物を扱うかのように拭ってくださる。
ずっと辛かった。
心の奥底に蓋をして隠しておいた感情が一気に溢れ出す。
「よく頑張ってきたな。きっと兄上も強くなった名前を見て安心なさっているに違いない」
「でも杏寿郎さん…私はまだ、強くなりたいのです」
「わかっているとも。これからは俺が稽古をつけてあげよう。夫である俺が妻である君に稽古をつけるなんておかしな話ではあると思うが、そうすれば俺も安心できる」
時々他の柱達にも稽古を頼んでみよう。そうすれば名前は今以上にずっと強くなれる。兄上もきっと喜んでくださることだろう。
目尻に溜まった涙を親指で拭ってくださった杏寿郎さんはとても穏やかな表情を浮かべていた。そして私はそんな彼の手をそっと握り返してそれに応えたのだった。