拾漆
長年の父との確執はまるで氷が融けていくように少しずつ柔らかいものへと変わった。父は戸惑いながらも労いの言葉や感謝の意を私へ伝えてくれるようになった。
杏寿郎さんの元へ嫁いだあの日、私はもう二度と実家の敷居を跨ぐことはないと思っていた。帰りたいとは微塵も思わなかった。しかし父と和解を済ませた私は光柱への就任を報告した日以来、定期的に実家を訪れるようになっていた。その度に「よく帰ってきた」と言って出迎えてくれる父の姿は私がずっと望んでいたものであった。
そんな父と縁側で二人腰を下ろしながら雪化粧した庭園の美しい景色を眺める。
「どうだ。煉獄様とは上手くやっているのか」
「はい。毎日幸せに過ごさせて頂いております。先日、杏寿郎さんと弟である千寿郎さんもご一緒に銀座へ行きました」
それがその時の土産ですと言って茶請けに添えられているカステラを差し出す。すると父は甘いカステラを口に運び、「美味い」と言ってほろりと頬を綻ばせられた。
「柱としての勤めはどうだ。苦労しているんじゃないか」
「まだまだ修行が足りないと実感させられる毎日です。しかし光柱として恥じることがないよう、誠心誠意勤めております」
「無理は禁物だ。くれぐれも気を付けて任務に励みなさい」
以前の父からはとても想像もつかない気遣いに胸が熱くなる。深く頷いて答えると父は深々と雪が舞い落ちる灰色の空を仰いだ。
そっと手を差し延べる。ふわりと手のひらに舞い降りた雪が体温によって解けていく様子に切なさを覚えた。
「兄上は私が光柱へ就任したことを喜んでくださっているでしょうか」
こうして空を仰ぐたびに兄を想う。
鬼との厳しい戦いに身を投じることを選んだ私を一番に叱ってくれたのは兄だった。兄は鬼殺隊ではなく、普通の女子としての幸せを掴むようにと私を諭した。しかし私は頑としてそれを受け入れなかった。尊敬する兄とともに鬼殺隊として生きることを強く心に決めていたのだ。
光柱へ就任したことを知ったら兄は怒るだろうか。否、きっと優しい兄のことだから困りながらもよくやったと私を褒めてくださったことだろう。
「尊はお前を本当に大切に思っていた。だからこそ不安も大きいだろう」
「わかっています。兄は私が鬼殺隊を続けることに反対されていましたから」
「あぁ。しかし立派に成長したお前を見たらきっとこう言うに違いない」
よく頑張ったな、と。
雪空を仰いでいた父が私を見やる。皺が深く刻まれた目尻を下げ、とても穏やかなその表情を浮かべている父につられて私も頬を緩めた。
何気ないこのような時間がどこまでも幸せだった。
* * *
「お父上殿はご壮健であっただろうか!」
「はい。先日銀座へ出かけた際に購入したカステラを大層気に入られておられました」
隊服に身を包み、杏寿郎さんと共に担当地区の見回りへと向かう。一日でも早く私が柱としての勤めに慣れることができるよう任務のない夜はこうして二人で見回りへ向かうことが最近の日課であった。他愛のない会話を交わしながらも確実に異常がないかを確認していく。近頃は大きな騒ぎを起こしている鬼の情報もなく、情勢は些か落ち着いていた。
今日も何事もなく見回りを終える。平和な村の様子にほっと胸を撫で下ろし、杏寿郎さんと帰路へ着こうかとした時であった。
脇の茂みから血相を抱えた隠が飛びだしてきたのだ。隠は私の姿を見つけると切羽詰まった声を上げて、縋るように私に助けを求めてきた。
「大変です!光柱様…!ご実家が…!鬼の襲撃に!」
「どういうことだ!?状況は!?」
「ほかの隊士ではまるで歯が立ちません!至急応援を願います…!」
杏寿郎さんと隠の言葉を最後まで聞き終えることなく、私は実家へ急行した。風を切るかのように木々の間を駆け抜けていく。杏寿郎さんがすぐ後ろを着いてこられていることは気配で感じていた。
頭の中が真っ白だ。全身から噴き出した汗が止まらない。
脳裏に父と母の姿がよぎる。ひどく嫌な予感がした。
小高い丘を駆け下りると見慣れた邸が視界に飛び込んでくる。縺れる足をなんとか動かして飛び込むように門を潜る。いつもならばしっかりと施錠されているはずの玄関は不自然に解錠されており、強引にこじ開けられたような形跡が見受けられた。激しく損傷している玄関から父と母の眠る部屋へと向かう。途中の廊下にはあちらこちらで絶命している隊士たちの姿があった。
足が震えて上手く前へ進めない。心臓が爆発しそうなほど早く脈打つ。
そして漸くたどり着いた部屋で、目の前に広がった光景に私はその手から日輪刀を滑り落とした。乾いた音で転がった日輪刀の刃にはあまりに惨いその光景が映った。
そこには最愛の父と母の遺体があった。
絶命していた父の手には一振の日輪刀が握られていた。それは父が鬼殺隊の隊士として活躍していた時に愛用していたものであった。母を守ろうとしたのだろう。その証拠に父は母に覆いかぶさるようにして亡くなっていた。
天井にまで走る血飛沫と夥しいほどの傷に父が懸命に鬼と対峙したことは容易に想像できた。
ゆっくりと父と母に歩み寄る。触れた血まみれの頬は雪のように冷たかった。
やや遅れて到着した杏寿郎さんはそのあまりに凄惨な光景を目の当たりにして言葉を失っていた。
「父上、母上…」
呼びかけるもその返事はいつまで経っても返ってはこない。
昼間、縁側で過ごした父との時間が鮮明によみがえる。帰り際に私が見えなくなるまで手を振ってくれた母の姿が強く脳裏に焼きついている。
当たり前のようにまた父と母に会えると思っていた。心を通わせた父とこれからもっとたくさんの話ができる、これまでずっと優しかった母にまだまだ妻として未熟な私へ裁縫や料理を伝授してもらおうと思っていた。
そして。いつ生まれてくる愛してやまない杏寿郎さんとの子をその腕に抱いてもらえると思っていた。
そのなにもかもが、いま、潰えたのだ。
冷たくなった父と母を抱きしめる。隊服を濡らす紅と決して抱きしめ返してくれない二人の腕が嫌でも現実を突きつけてくる。
すべてが夢であればいいと思えども、決してこの悪い夢は覚めてはくれなかった。
叫びにならない泣き声が雪が舞う虚空に響く。
神様、どうして私から大切なものを奪っていくのでしょうか。