隊服に身を包んだ私は刀掛けから日輪刀を手に取るとそっと額を寄せる。任務に向かう前にはこうして日輪刀と心を交わすことが私の願掛けであった。また無事にここへ帰ってこれますようにと日輪刀に願いを込める。耳に光る一粒の黒曜石でできた耳飾りは兄の形見であり、兄の死後、父には秘密に母から受け取ったものだ。
やはり隊服を着ると身が引き締まる。私は足袢を着用しないので周囲から見ると動き辛いと思われがちなのだが、慣れてしまえばこちらのもの。むしろ光の呼吸を使うにあたっては、こちらの方が勝手が良いと私は思っていた。

そろそろ出発の時刻だ。新婚旅行を兼ねているとはいえ、目的は情報収集。決して杏寿郎さんの手を煩わせることがないように務めよう。一度大きく息を吸い込み、心を落ち着かせる。そして長く伸びた黒い髪を髪留めで結い上げると私は玄関へ向かった。

「名前の隊服姿はこれが初めて目にするが随分と雰囲気が変わるな!」

「杏寿郎さんとはこれまで一度も任務でご同行させて頂いたことがございませんでしたので…。本日はどうぞよろしくお願い致します」

すでに出発の準備を整えていた杏寿郎さんの凛々しいお姿に思わず目が奪われる。待たせてしまったことを詫びて急いで草履を履き、見送りに出てきてくれている千寿郎さんから切り火を受ける。

「兄上、姉上、どうかご武運を。お帰りをお持ちしております」

「うむ!三日後には帰る予定だ!父上を頼んだぞ、千寿郎」

「ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いしますね」




初めて乗る汽車という乗り物に私は大層感激していた。こんな鉄の塊がまさかこのような速さで走ることができるなんで、日本の文明もいつの間にかどんどんと進んでいるものだ。車窓からの景色の虜になっている私の隣で、先ほど乗車前に駅で購入した駅弁というものを美味い美味いと食べる杏寿郎さんとの温度差が若干気にはなるが、今は初めての汽車をじっくりと堪能させていただこう。せっかく親方様が一等車の切符を用意してくださったのだ。まさか汽車の中に部屋があるなんて驚きの連続である。

「美味い!やはり駅弁は牛鍋弁当に限るな!名前も食べるといい!」

「先ほどからずっと召し上がれているではありませんか。少し休憩なさったらどうです」

杏寿郎さんのほうを見やると空になった弁当の箱がいくつも積み上げられており、さすがにぎょっとしてしまった。朝餉もしっかり三杯はおかわりなさったはずなのに。
呆気にとられている私をよそに杏寿郎さんは最後の一口をひょいと口へ放り込み、ここでようやく食事を終えた。

「名前と任務に来られたことが嬉しくてな!つい食べ過ぎてしまった!」

「私と?」

「そうだ!夫婦にはなったものの、俺は名前のことをあまりよく知らない。今回の旅で君のことを沢山知りたいと思っている」

私は杏寿郎さんからの思いがけない言葉にただただ驚いていた。

杏寿郎さんとの縁談は父に決められたもので決して拒否することは許されないものだった。女子であることに引け目を感じていた私が父の命に背くことなどできるはずもなく、私は杏寿郎さんと夫婦になった。
だから杏寿郎さんのことを知りたい、と思ったことなど一度もなかった。夫と妻。男と女。そこに愛などは存在しない、ただそれだけの関係だと思っていたからだ。

しかし、杏寿郎さんは違った。私のことを知ろうとしてくださっているのだ。なんて人間味の溢れた優しい方なのだろうか。

杏寿郎さんの本心に触れた私の視界は涙で滲む。涙を隠すように杏寿郎さんから視線を外すと、彼もそれを察してくれたのだろう優しく私の頭を大きな温かい手で撫でてくれた。

「これから一生を共にするのだ。少しずつでいい。名前のとこを俺に教えてくれ」

「はい…」


* * *


目的地へ到着し、予定通り情報収集を終えたのはまだ宿泊先の宿に向かうには早い時刻であった。思っていたよりも随分と簡単に情報が手に入ったものだ。もしかしてこれも親方様の計算なのだろうか。
一先ず休憩がてら入った茶屋で抹茶を啜り、ちらりと杏寿郎さんを伺い見る。すると彼もまたこちらをジッと見つめていたようですぐに視線はぶつかった。

「君は抹茶が好きなのか」

「抹茶は好きです。杏寿郎さんもお好きですか」

「飲めないというわけではないのだが、どうも俺には少し苦くてな!」

そう言って注文した団子を頬張る杏寿郎さんは意外にも甘党らしい。さつま芋もお好きであるので、もしかしたら彼は優しい甘さのあるものが特に好きなのかもしれない。きっとさつま芋の団子を作れば喜んでくれるに違いない。任務から帰ってたら作って差し上げよう。

「暫く時間がありますがこれからどう致しましょう」

「腹も膨れたことだ!少し町を歩いてみないか」

「それはいいですね。賑やかな町のようですので散歩がてら参りましょうか」

一足先に団子を食べ終えた杏寿郎さんは私が抹茶を飲み終えると否応なしに会計を済ませてしまった。ご馳走してもらうつもりなどなかった私が慌てふためいて財布を取り出すも、当然それを受け取って貰えるはずもなく、むしろ彼から「夫婦なのでこれくらい気にするな」とまで言われてしまった。それでも引き下がらない私に彼は「では次は名前に馳走になろう」とだけ言って店を出たであった。

東京と比べれば賑わいは少ないが、それでもとても栄えた町である。あちらこちらに目を惹かれるようなお店が軒を連ねており、行き交う人々もハイカラな着物や袴を身に纏っている。こうして町を歩いているだけでも私には十分楽しい時間であった。すべてが新鮮で、すべてが美しいと感じた。

気が付けば日も傾き、空は茜色に染まっていた。私と杏寿郎さんは町から少し離れたところにある湖の畔を訪れていた。巣へ帰る鳥達の鳴き声が心地良い。もうじきに夜になるだろう。それまでには宿へ向かわねばならない。
そろそろ戻ろうかと杏寿郎さんの方を振り返ると彼はそれに合わせたように口を開いた。

「一つだけ、名前に聞きたいことがある」

「なんでしょう」

「どうしてそのように女子であることに引け目を感じているのだ」

一陣の風が私たちの間を吹き抜け、沈黙が流れる。しかし私はすぐにその沈黙を破った。

「兄はとても立派な剣士でした。父も兄を誇りに思い、私も兄を誇りに思っておりました。私は兄のような剣士になりたいと来る日も来る日も鍛錬を積みましたが、兄のようにはなれませんでした。私が女子であったからです」

私を見る父の蔑んだ眼差し。まるで弱い私など存在する価値もないとでも言っているかのようだった。できることならば、このまま自害してすぐにでも男子に生まれ変わりたいとまで思った日もあった。

「父には兄だけでよかった。女子である私は父にとって不要な存在だったのです」

不要な存在。
その言葉を口にした瞬間、涙が込み上げてきた。しかし決して涙だけは見せないと決めていた私はグッと奥歯を噛んでそれを耐えた。

「杏寿郎さん。私は貴方の妻となり、その責務を果たすことができますでしょうか」

恐らく、今夜私は杏寿郎さんに抱かれることになるだろう。宿の部屋は当然一部屋しか用意されていない。初夜にあたる日から随分と経ってしまったが、私の覚悟を決めるには丁度良い時間だった。いつまでも杏寿郎さんに触れられることから逃げてばかりはいられない。杏寿郎さんと二人で任務に向かうことが決まったあの日、私はこの身を彼に捧げることを決めたのだ。

先ほどまで茜色であった空に深い藍色が混ざり始める。いつの間にか鳥達の声も聞こえなくなっており、辺りは静寂に包まれていた。なかなか口を開こうとしない杏寿郎さんに痺れを切らした私が彼の名を呼ぼうとした時であった。ようやく杏寿郎さんがその口を開いた。

「今夜俺は君を抱かない」

予想もしていなかった言葉に息が詰まる。何故、どうして。そう問いかけたいはずなのに上手く声がでなかった。

「ただ勘違いしないでほしい。名前に触れたくないというわけでは決してない。君が俺という一人の男に心を開いてくれるその日まで待つという意味だ」

「けれどそのようなこと父上達はお許しに…」

「これは父上達の問題ではない。俺と名前、俺たち二人の問題だ」

煉獄家の跡継ぎを、杏寿郎さんとの子を、何としてでも産まなければならない。これは煉獄家へ嫁いだ私の責務。この責務を果たさねばきっと父から女子としての役目すらも果たせぬのかと失望され、叱責されることだろう。いつか杏寿郎さんからも離縁を言い渡され、帰る場所さえも無くしてしまうことになるだろう。
それだけはどうしても避けたかった。
だが、目の前の杏寿郎さんはそれを許してくれる。引け目ばかりを感じてきた私にそっと優しく手を差し伸べてくれている。

「時間はかかるやもしれない。だが、焦らなくていい。夫婦になっていこう、名前」

優しい眼差しで私を見つめてくれる杏寿郎さんのことを、少しずつでいい、知っていきたいと思った。