杏寿郎さんは宣告した通り、私を抱くことはなかった。一間に隣り合わせて敷かれた二組の布団を目にした時こそ「よもや!」と大きな声を上げられたが、それだけであった。抱かれることはないとわかってはいても異性と同室で夜を明かすことは当然ながらこれが初めてのこと。落ち着かない様子で部屋の隅で固まっているとそれを見た杏寿郎さんがおかしそうに笑った。
ぎこちないながらもそのまま夕餉を頂き、湯浴みをすませ、それぞれの布団に入った。そして杏寿郎さんの寝息が聞こえてきた頃、ようやく私は張り詰めていた緊張の糸を解くことができたのだ。

明日もこの町で情報収集を行い、夕方には汽車に乗る予定だ。しかしその日は東京には戻らず、途中下車するとのこと。なんでも、もう一泊宿をとっていると杏寿郎さんから先ほど教えられた。明後日は任務の予定は入っていないので折角の新婚旅行を楽しもうという杏寿郎さんの心遣いらしい。

ころんと寝返りを打り、穏やかな顔で眠る杏寿郎さんを見やる。伏せられた長い睫毛の奥には燃えるような誇りが宿った瞳を思い出すとチリチリと胸が焦げる。
いつかこの方の子を産みたいと思える日がくるのだろうか。この方を心の底から愛しいと思える日がくるのだろうか。共に生きていきたいと思える日がくるのだろうか。

だんだんと意識が遠のいていく中、温かな手が私の頬を優しく撫でる。それが夢か現かわからぬまま、そっとその手に自分の手を重ね、意識を手放した。


* * *


「パンケーキ?」

途中下車して降り立った町は任務で訪れていた町よりも更に賑やかな町であった。杏寿郎さんに連れられ、向かった喫茶店は随分とハイカラな甘味を提供しているらしく、聞きなれない西洋のものであろう甘味がずらりとお品書きに書き連ねられている。なんでも杏寿郎さんのおすすめはパンケーキという食べ物だとか。一体パンケーキとはどのような食べ物なのだろうか。皆目見当のつかない私が首を傾げていると丁度隣に座っていた女学生達の注文していたパンケーキとやらが運ばれてきた。

「なんと…!」

一目でパンケーキに心を奪われる。柔らかそうなパンにたっぷりとかけられた黄金色の蜂蜜が美しい。その横にちょこんと添えられているのは一度は食べてみたいと秘かに狙っていたアイスクリンではないだろうか。正に夢のような食べ物だと目を輝かせていると杏寿郎さんは近くを通りかかった店員を呼び止めた。

「このパンケーキを二つ頂こう。名前もそれでいいだろうか」

「勿論です!」

注文を終え、直に運ばれてくるであろうパンケーキに思いを馳せる。しかし、ふとなぜこのような甘味屋を杏寿郎さんが知っているのだろうかという疑問が生まれた。

「以前にもこのお店へ来られたことが?」

「いや、今回が初めてだぞ!実はこの任務に向かう前に柱仲間の一人からこの店のことを聞いてな!名前を連れてきてやろうと思っていたんだ!」

ふわりと胸が温かくなる。どうしてこの人はこんなに優しいのだろう。
杏寿郎さんの優しさに自然と頬が綻ぶ。

「初めてそのように笑ってくれたな」

「え…」

「ずっと無理して笑顔を作っていると思っていた。だから君がこうして自然と微笑む顔が見たいと思っていた」

俺の作戦は成功のようだ!と杏寿郎さんが無邪気に笑う。まさかという思いで頬を両手で包んでみる。すると杏寿郎さんの言葉通り、無意識に私の頬は綻んでいた。確認した途端になぜかとても恥ずかしくなり、思わず顔を隠すように俯くと甘い香りと共に注文していたパンケーキが運ばれてきた。
きらきらと光る蜂蜜が眩しい。温かいパンに添えられたせいかゆっくりと溶けだしているアイスクリンも非常に魅力的である。なんて贅沢な食べ物なんだろう。

「温かいうちに頂こう!これを食べ終わったら、少し町を見て回ろう」

「はい!」



パンケーキを食べ終え、杏寿郎さんに続き喫茶店を出る私はじっと不満気に彼を見つめていた。杏寿郎さんは私の視線に気付いているはずなのにわざと目を合わせようとしない。
今日こそは私がご馳走しようと思っていたのに。
昨日ご馳走になったお礼に今日は何があっても私がご馳走しようと意気込んでいたのだが、まんまとしてやられたのだ。お手洗いのために席を外したほんの数分の間に。会計をせずに店を後にしようとうする杏寿郎さんを慌てて呼び止める私にすでに会計は済んでいると言った杏寿郎さんのしてやったりという顔。恐らく初めから私に支払いをさせるつもりなど更々なかったのだろう。

「そうむくれてくれるな!妻に支払いをさせるなんて格好がつかないだろう」

「そうですけど…。なんだか申し訳なくて」

杏寿郎さんは柱なので私よりもずっと高額の給料を頂いているだろう。あの程度の支払い痛くも痒くもないはずだ。勿論、杏寿郎さんの仰っていることも十分理解できる。だけど、与えられてばかりな気がして非常に心苦しく思ってしまうのだ。
前を歩いていた杏寿郎さんがぴたりと足を止める。俯き加減で歩いていた私はそれに気付くことが遅れて、ぼすんと彼の背中にぶつかってしまった。

「も、申し訳ございません。少しよそ見を…」

「では、今度俺のために名前がパンケーキとやらを作ってくれないか!」

「パンケーキを?」

「うむ!そうすれば俺も名前に馳走になったことになろう!」

ぶつかった際に強打した鼻を擦りながら聞き返すと、返ってきた提案は到底私では思いつかないものだった。

私が杏寿郎さんのためにパンケーキを作る。確かに作り方さえわかれば、パンケーキを屋敷で作ることは難しくないだろう。アイスクリンを添えることは難しいかもしれないがそれ以外の材料は手に入りそうだ。きっと千寿郎さんも喜んで召し上がってくださるに違いない。しかし肝心の作り方がわからない。当てずっぽうで作って上手くいくものだとはとても思えない。
どうにか手はないかと悩み始めた私に杏寿郎さんから思わぬ助け舟がでる。

「甘露寺という恋柱が作り方の手順を知っているそうだ。俺の元継子でな!今度紹介しよう」

「恋柱様が?」

「彼女は自宅で養蜂をやっているとも聞いた!近く柱合会議があるのでその場で甘露寺に話をつけてきてやろう!」

恋柱様といえば桃色と黄緑色の髪が印象的な可愛らしい方だ。一度だけご同行した任務で平隊士の私にもとても気さくに話しかけてくださったのでよく覚えている。まさか杏寿郎さんの継子であったとはこれが初耳であったので大変驚いた。

「甘露寺の任務の都合もあるだろうから予定はわからないが楽しみにしていてくれ!」

「はい。恋柱様とお会いできることを楽しみにしております」

こうして杏寿郎さんと過ごす日々を送っていると彼との約束が1つ増えていく。そのことがどうしてか嬉しくて、同時に胸が温かくなった。