自覚した心

『独り占めしたい心』 の続き


「ナマエさん。偶々見かけたのですが、先日一緒にいた男性は誰ですか?」

いつも通り宝食堂のアオキさんの隣の席に腰掛けると、そんな言葉が飛んできた。ご飯に触れようとしていた箸が止まる。宙で止まった箸を置いてしばらく思案する。まず思ったのは何故そんな事を聞くのか。次に思ったのはどのタイミングの事なのかという事。仕事で男性と会う事だってあるし、アオキさん自身それをわざわざ誰とは聞いてこないだろう。

「先日……うーん? 何処ですか?」
「チャンプルタウンの…………」
「ああ! アオキさん見てたんですか、声かけてくれたら良かったのに」

それなら納得。確かに彼は私と付き合いのある人とは雰囲気が異なっていたし、疑問に思ったのかもしれない。それを言うなら私とアオキさんもそうだけど、そんな違和感もないくらい一緒にいると彼が思ってくれていたら嬉しい。一人で納得しているとアオキさんからの刺すような視線を感じた。チラリと見ると完全に箸を置いたアオキさんがこちらをじっと見ていた。

「それで」
「なんか私のファンらしくて。自分で言うのも照れますけど……」

そこまで言うと、目の前のアオキさんの雰囲気が変わった気がした。何か気に障る事を言ってしまっただろうか。不安になりながらアオキさんの様子を窺っていると小さく息を吐く。

「ナマエさんにファン……? そんな奇怪な人物が存在するんですか……?」
「アオキさんって案外失礼ですよね!」

奇怪な人って! 前々から思っていたが、アオキさんは思っている事をすぐに口にするような気がする。もしそれが私の事を信頼しての言動ならいいのだけど、普段からそんな態度だと心配だと余計な事を考えつつ、アオキさんをジッと見つめると居心地が悪かったのか僅かに目を逸らした。

「いえ、だってナマエさん一般人でしょう」
「まあそうですけど。でも実はバトルしたりしてるんですよ!  ポケモンリーグにも行ったことありますし」
「……初耳ですよ」
「言ってませんでしたから」
「……そうですか」

リーグに行ったと言ったのは正直見栄も入っている。正しくはリーグに行って何故か面接を受ける事になり、そしてバッジが揃ってなかった私は無惨にも落ちたという訳だ。アオキさんの反応に少しだけムッとしてしまったから、敢えて本当のことを言わなかったってこともある。でも嘘は言ってない。

「例えファンだったとしても、そんなよく分からない男を構わんでもいいでしょう」
「ファンを名乗るよく分からない女はいいんですか?」
「……ナマエさんは別です」
「……もう!」

ついと視線を逸らしたアオキさんの耳が僅かに赤くなっていた、ような気がする。この前から少しずつではあるが自身の思いを口にしてくれて、それが好意のものだから……嬉しくて堪らない。ファンを名乗ってくれた人には悪いけれど、少しずつ塩対応にしようかな。そんな事を思いながら私は目の前の食事に集中した。

***
そんな事をアオキさんの前では思ったものの、好意を持って接してくれる人物を急にあしらうなんて器用な真似が私に出来るはずもなかった。今だってそんなファンの彼の前にして、困り果ててしまっている。いつもなら好きな事を話して去っていくのに、今日は一向に帰ってくれない。

「ナマエさんはバトルしないんすか? あなたの楽しそうなバトル姿好きなんですよ!」
「えっと、ありがとう……だけどあまりしないかな」
「もったいないな〜! あ、よかったら俺とバトルデートとかどうすか?」
「あー……ごめんなさい」

懲りずに誘ってきた彼をやんわりと断る。相変わらず軽い調子で話し掛けてくる彼は中々諦めてくれなかった。おざなりな反応で相槌を打ち、道を歩いているのに全くめげる様子を見せない彼にどうしようかと心の中で溜息を吐いた。もう暗くなってきているし、早く帰りたいんだけど。そう思った瞬間、急に腕を掴まれた。

「そうは言いつつ、強く拒否しないって事は満更でもないんでしょ? なら、いいじゃん」
「ちょ、やだ!」

力任せに引っ張られバランスを崩す。そのまま路地裏に連れ込まれそうになった瞬間だった。強い力で手首を引かれ、私は誰かの腕の中に収まった。強く引かれた手とは裏腹に、抱き締める腕はとても優しい。顔を見なくても助けてくれたのが誰だか分かる。これはアオキさんだ。そっと視線を上げるとやっぱりアオキさんで。突然の出来事にどうする事も出来ない私を他所に、アオキさんは目の前の男を見る。鋭い眼光で睨むアオキさんの腕の中は温かかった。

「もう大丈夫です、ナマエさん」
「アオキさん……」

頭上から優しげな声が降ってくる。アオキさんの髪は乱れていて、急いで駆けつけてくれたのが分かった。私を落ち着かせるためか頭を数回撫で、目で離れろと訴える。

「自分がお相手しましょう」
「え、お前がアオキ!? 嘘だろ、俺を嵌めたのか!?」

男は狼狽えた声を上げる。嵌めたと喚く彼はアオキさんの登場で随分と狼狽えているようだ。私の事をファンだと言って笑っていた彼のあまりの変わり様に身体が震える。

「いやいやいや! ジムリーダーの人となんて無理に決まってる!!」

アオキさんが私を庇うように前に出た事で、漸く目の前にいる人物がジムリーダーであると気付いたようだ。叫ぶ彼をアオキさんの後ろから見つめた。

「大丈夫ですよ。自分、どこにでもいる平凡なサラリーマンなので」
「い、いやぁ……俺もう行くわ。クソッ」

いつの間にか出したモンスターボールを構えたアオキさんが彼を挑発する。それを見た彼は捨て台詞を吐いて後退る。

「あっ……」
「では行きましょうか」

引き留める間も無く去っていく彼。私はただ呆然と見つめる事しか出来なかった。そんな私をアオキさんは声で引き戻す。パッと視線を移すと眉間に皺を寄せた表情が目に入る。そんな顔を見た途端に、私の口からは自然と言葉が溢れていた。

「ごめんなさい、アオキさん」
「だから言ったんですよ。おかしな男に構うなと。……ナマエさんが無事で良かった。しかし、これに懲りたら……ナマエさん?」
「あれ? おかしいな……泣くつもりなんて」

頬を伝う雫を拭いながら謝る。涙を流す私を見て驚いたように目を丸くさせたアオキさんは当惑の色を浮かべた後、ジャケットを脱いだ。そして自身の胸元へ私を引き寄せる。温かい。軽い感触がしてアオキさんのジャケットが私の頭に掛けられた。まるで彼に包み込まれているような、そんな感覚の中彼の体温を感じながら静かに泣いた。

泣き止むまでの間、アオキさんは何も言わずにただ抱き締めてくれていた。

「もう、大丈夫ですか?」

頭上からアオキさんの声が聞こえる。折角だからもう少し彼の胸に抱かれていたかったけれど、これ以上甘えて迷惑をかける訳にはいかない。

「ありがとうございます。ごめんなさい、急に泣いてしまって」
「いえ……」

迷惑を掛けた事と共にアオキさんの服を濡らしてしまった事も謝罪すると、気にしないでほしいという返事。そして優しく頭を撫でてくれた。こんなに優しくされるといよいよ勘違いしてしまう。アオキさんも私と同じ思いを抱いているなんて、そんな願望を。

「怖い思いをしたのに、それを責めてしまい申し訳ございません。決して怒ろうとした訳ではなく……」
「知ってます。私を考えて、のことですよね?」
「……そうです。女性が男に絡まれていると道行く人が言っていて、もしそれがあなただと思ったら居ても立っても居られなくなり……」
「本当に、私だったんですね。助けてくれてありがとうアオキさん」
「遅いですが、一人で帰れますか?」

大丈夫です、と告げようと思ったけれど言葉が上手く出てこない。アオキさんが来てくれた事で安心はしても、まだ恐怖が残っているのだろうか。そんな私を見て察してくれたのか、アオキさんは口を開く。

「送ってきます。それか、うちに来ますか?」
「へ、それ……」

思わずはいと答えそうになって、我に帰る。いくらアオキさんとはいえ、流石に男性の家に行くなんてどうかしている。どうしようかと返答に困っていると彼は微かに笑い手を差し出した。

「冗談ですよ。何処かで飯食って帰りましょう」

*
いつもと違う店でアオキさんと向かい合って座る。いつもの宝食堂でいいと言ったのに、泣いていた私を気遣ってくれたのか極力知り合いが少ない店を選んでくれたようだ。慣れない店で僅かばかりの居心地の悪さを感じながら食事を進める。ご飯も終わりにかかってきた頃、私は勇気を出して大胆な質問を口にする。

「アオキさん私の事好きなんですか?」
「嫌いだったらファンを名乗るのを許してませんよ」
「いや、そうじゃなくて恋、みたいな」
「恋……」

何気なく聞いたように装って口にした質問、まあ私としては結構賭けに出たものだけど、それにアオキさんは目を見開いた。そして小さく息を吐き、グラスに入った水を飲む。こくりと動く喉仏をじっと見つめて返答を待った。その少しの間が緊張する。空になったコップをテーブルに置くと、アオキさんは私を真っ直ぐに見据えて口を開く。

「そんな事、今まで考えた事すらありませんでした」

そう一言呟くとアオキさんは再び黙ってしまう。何か考え込んでいるのか、難しい表情で宙を睨んでいた。考えた事すらない、という言葉にアオキさんの気持ちが表れている気がする。ああ、調子乗っちゃったな。

「あの、そんなに考えなくても。冗談で言っただけなので!」

自分がアオキさんに恋しているからといって、彼がそうだとは限らないのに。慌ててフォローを入れる私に、アオキさんは全く反応せずに動かなくなってしまった。無視をしているのではなくてきっと考えているだけだから、そう思うようにして静かに待つ。
すると、アオキさんは息を小さく溢すと私を視界に入れた。真剣な眼差しを向けられ、思わず背筋を伸ばす。

「アオキさん?」
「そう、ですね。……ありがとうございます」

ふわりと微笑むアオキさんに、胸が締め付けられるような感覚に陥る。どうしてそんな笑みを浮かべたの? 唾を飲み込むと恐る恐る私は口を開いた。

「何かお礼を言われるような事ありました?」
「ええ。自覚出来たので」
「自覚って……」

何の事を言っているのか分からず首を傾げる。冗談を言ってアオキさんを困らせてしまっただけのような気もするが、とりあえず曖昧な笑みを浮かべてアオキさんに返した。そんな私を見てアオキさんも緩やかな笑みを溢す。

「今後嫌でも分かりますよ。さあ、もう飯も食い終わりました。帰りますか。ナマエさん送りますよ」

アオキさんはスムーズな動きで伝票を手に取り、席を立った。慌てて鞄を掴んで立ち上がると、アオキさんは私に背を向けて会計に向かっている。払います、大丈夫ですの問答があって、外に出るともうすっかり夜になっていた。

結局アオキさんは私の家の前まで着いてきてくれた。近くまでで大丈夫だと伝えたけれど、心配ですと押し通されてしまった。今となっては暗かったし送ってもらって良かったと思う。だけど、やはりどこかで申し訳なさが心を重くした。

「本当に今日はご迷惑をお掛けしました」
「災難な日でしたね。あなたでも女性なんですから気をつけて」

でも? 何となく言い方に引っ掛かりを感じた私はアオキさんをじっと見上げる。視線に気付いたのか、彼は僅かに目を細めて此方を見た。その瞳の奥に宿る感情が何なのか分からず、自分から合わせた筈の視線を逸らしてしまった。今日のアオキさんはいつも以上に分からない。一介のファンとしても、恋する乙女としても。その恋する乙女として、どうしても気になってしまった。

「あなたでもって言い方はないんじゃ……」

言い切る前にアオキさんが身体を寄せた。距離の近さに思わず固まる。近いと呟く前にアオキさんの足が一歩前に出て、私の肩を掴んだ。掴まれた肩に意識をやっていると、すぐそこに気配を感じる。

「あっ……」

肩に触れた手、触れそうで触れない唇。そのまま耳元に顔を寄せたアオキさんがそっと囁く。

「こういう事です、ナマエさん」

全身が心臓になってしまったと錯覚する程、自身の鼓動が煩い。囁かれた耳がまるで火傷してしまったみたいだ。分かりましたかと此方を覗き込むアオキさんに、こくりと頷いた。

「本当はもっと可愛らしいあなたを見ていたいんですが、どうしてもやらないといけない事がありまして。それでは、また明日」

軽く会釈をして去っていくアオキさんを見送って、急いで家の中に入った。玄関の鍵を閉めた瞬間に力が抜けて座り込んでしまった。勝手に明日も会う事になっているし、あんな事をしたのに涼しい顔をしていたし。でも、きっと明日も宝食堂へ行ってしまう。ああ、明日どんな顔をして会えばいいんだろう。火照る頬を抑えながら、声にならない叫びを上げた。