カルネアデスの板に問う


五条くんは「なまえ」と呼ぶ。
硝子さんは「なまえ」と呼ぶ。
七海くんと灰原くんは「なまえ先輩」と呼ぶ。

ただ一人、夏油くんだけが私のことを未だに「みょうじさん」と呼ぶ。

別に好きなように呼んでくれていいんだけど、少しだけ距離を置かれているような気がしてちょっぴり寂しい。けど、わざわざ「なまえって呼んで」と言うほど気になっているわけでもなくて、なぁなぁになって私たちは高専の日々を過ごしていた。


カルネアデスの板に問う




夏が来る少し前、海外での任務に行かされていた私は天内理子の件を一切知らない。
長期任務から帰国したら五条くんは反転術式を会得していて、赫と蒼それぞれの複数同時発動も出来るようになっていて、文字通り『最強』になっていた。
五条くんが一人で任務に出ることも多くなって、夏油くんも同様に一人での任務が多くなっていった。
災害が多かった翌年ということもあり、同級生といえど顔を合わせることも少なくなった。

有限である呪術師と、それに反して無限に湧いてくる呪霊。
毎日のように誰かが死ぬし、怪我をする。祓って、傷ついて、治る前にまた任務に行って。17,18の年頃の私たちにはあまりにも過酷すぎる現実だった。

「みょうじさん、戻ってたのか」
「あ、夏油くん。夏油くんもね」
「会うのいつ以来だろうな」
「そうだね。今年の夏は暑いし、呪霊も多いね」
「〇〇さんの話聞いたかい?」
「……うん」
「なら灰原のことも」
「聞いたよ、五条くんが仇を撃ったって」
「……仇か。」

高専で唯一の自販機の前。ベンチに座って項垂れている夏油くん。夏油くんの顔を見ると、その表情はとても苦しそうだった。
暑すぎるせい、忙しすぎるせい、そのどちらにも見えてどちらでもないような気がした。

「夏油くんは……平気じゃないよね」
「みょうじさんは平気、みたいだね」

タイミングは最悪。自販機で購入した振って飲むゼリーを手に一生懸命振ってしまった。
元々印象はよくない私の印象がまた悪くなってしまった。夏油くんは私を見て苦笑いしている。


「ごめん……」
「気にしなくていいよ。みょうじさんらしいなって思って少し癒された」
「こんなのが?夏油くん疲れてるんじゃない?
「そう、そうかもな。ちょっと疲れているのかもしれないな」

夏油くんの隣に座って少し振りすぎたゼリー飲料の蓋を開けた。
夏油くんの手のひらの中のミネラルウオーターのペットボトルは蓋を開けられることなく、彼の手の中で温まっていく。

「……私が言うことじゃないかもだけどさ、無理しないでね」
「ありがとう。でも大丈夫だよ、まだやれるから」
「そっか」
「うん」

夏油くんは私よりも大人びていて、優しくて、強い人だと思う。
呪術師としても未熟な私には彼の心を推し量ることすらできないことがもどかしいけれど、夏油くんには五条くんが居るのだから私が出しゃばる必要はないのだと言い聞かせることしか出来なかった。
2人とも無言のままゆっくりとした時間が流れる。時々吹く温い風が二人を包んですぐに離れた。

「みょうじさん……」
「なぁに?」
「なまえって呼んでいいかな」
「もちろん」
「じゃあ、俺も傑で良いよ」
「えっ、あっ、はい……」
「ふは、なんだいそれは」

夏油くん改め、傑くんは笑った。
先程までの憂いを帯びた雰囲気はなく、憑き物が落ちたかのように清々しい笑顔を見せた傑くん。
そんな彼に釣られて私も思わず笑ってしまって、2人で声を上げて笑っていた。


「久しぶりだな、こういう空気感」
「そうだね、懐かしい感じする」
「うん、やっぱり好きだな」
「ん、何が?」
「なまえが」
「そうやっていつも女の子ナンパしてるんでしょ?」
「どうだろう、でもなまえは特別枠だから」
「そういうこと言うんだ」
「本当だって、私は嘘なんてつかないよ」
「もう、からかわないでよ!」
「はは、ごめんごめん」

初めて傑くんが近くに感じた日だった。
なのに、それから数日後。傑くんは非術師を殺して姿を眩ませてしまった。その日の夜に一通のメールが届いた。
『なまえはカルネアデスの板を知っているかい?』
たった一言。
それだけ書いてあった。
傑くんはあの時、何を思っていたのか。何を考えて、どんな気持ちだったのか。
私には想像することしか出来ないけど、それでも彼が絶望していたことだけはわかった。
私はその時、何も返信できなかった。次にカルネアデスの板に問われるのは私なのかもしれない。