Day.7


朝になった。
今日は初めて私が傑を待っていようと、寮の玄関に立った。
しばらくして訪れた傑は、私を見つけると目を細めて「おはよう」と告げる。いつもと逆だ。私も「おはよう」と告げ、昨日のお礼を言おうとする。すると、傑の人差し指が私の唇に触れた。「ありがとうはもう聞き飽きたよ」と言う傑にもう一度だけ「ありがとう」と告げると傑は少し困ったように笑った。


「歩きながら話そうか」
「うん」

すっかり葉が落ちて寒々とした道を歩く。空を見上げると澄んだ青が広がっていた。ふわりと風に乗って冬の匂いが届く。朝の澄んだ冷たい空気に頬が当たりピリリと痛む気がした。隣を歩く傑の横顔を見ると、寒さで鼻先が赤くなっている。その表情を見て思わずクスッと笑うと、「何笑ってるんだよ」と言われた。

「寒いなぁって思ってさ」
「そうだね。私はこの季節が一番嫌いだよ」
「夏油だけに?」
「なまえも言うようになったね」
「そりゃあ毎日悟と傑のやり取り見てるからね〜」
「それもそうか」


クツクツと笑いながら歩く。こうして並んで歩いているだけで胸の奥が暖かくなって自然と笑顔になってしまう。
けれど、それも今日で終わり。偽わりの恋人関係は、もうその目的を果たしたのだから。
私が昨日のことを思い出したタイミングで傑が「そういえば」と口火を切った。


「昨日の彼、補助監督をクビになって実家に強制送還されたそうだよ」
「そっか……」
「なまえが責任を感じることはない」
「うん、でも、」
「彼がそうなったのは彼自身の行いのせいだよ」

キッパリと言い切る傑の言葉を聞いて、私は小さく息を吐いた。そして、視線を足元へ落とす。あの時、私は彼に何をしてあげられたんだろう。どうすれば良かったんだろうか。そもそもどうしてこうなってしまったのか、答えは出ないままだった。

「私と居るのに他の男のことを考えているのかい?」

下を向いていたせいで形を変えてしまった私のマフラーを整えながら、傑が意地悪く微笑みかける。それに気付いて慌てて顔を上げると、傑の顔がすぐ目の前にあった。驚いて後ろに下がると、足元に転がっていた石でバランスを崩してしまう。そのまま背中から地面へ倒れる寸前で大きな手が私の腰を支える。見上げれば先程よりも更に近い位置に傑の目があった。黒い瞳の中に困惑した自分が映っているのが見えるほどに近い距離。ゆっくりと傑の顔が近づいてくるのを感じて、唇を手のひらで覆った。

「傑、もう恋人ごっこはしなくていいんだよ」
「……そうだね」

傑の唇を覆う手の上に軽くキスを落としてから私を立たせると、彼は静かに返事をした。
それから私たちは何も言わずに歩いた。
朝の早い時間に歩いているのは私たちくらいで、周りには誰も居ない。時折吹き付ける風が強くなったような気がする。雪は降らないものの、冬本番といった気温だった。

「なまえ」

不意に名前を呼ばれて顔を上げれば、立ち止まった傑に呼ばれた。何?と返せば、傑は一度目を伏せてから真っ直ぐにこちらを見た。黒曜石のように黒く澄んだ双眼が、朝の冷たい光の中でキラキラとしているように見えた。


「このまま本当に付き合わないか?」
「え、ムリ」
「即答はひどくないか?」
「いやだって……傑と付き合ったら甘やかされすぎてダメ人間になりそう」
「ひどい言いがかりだな」
「違うの?」

眉間にシワを寄せた私を見て「まぁ、否定できない部分もあるけど」と言って頭をガシガシとかいて誤魔化した傑。その仕草に少し笑ってしまえば、つられて傑もフッと表情を和らげた。そして「なら今度からは遠慮なくいこうかな」と言う。傑らしい返しに思わず声を出して笑ったあと「ごめん」と言えば、「わかってるよ」と言った傑にまた笑われた。

「あーあ、今日誕生日なのにフラれてしまったよ」
「ふふっ」
「じゃあせめて一つ我を通しても良い?」

そう言うと傑は少し身を屈めながら両手を広げて、私を覗き込む。
これは、私が知っている"彼氏にやって欲しいこと"のうちの一つだ。だからきっと私は拒否出来ないだろうことを彼はちゃんと知っていた。案の定断る言葉が出てこず、「どうぞ」と促すしかない。傑は嬉しそうに口角を上げてから「失礼します」と言って、広げていた腕の中へと私を収めた。少しひんやりとする体温に包まれる。その感覚は昨日とはどこか違っていて、「寂しいね」という彼の一言に何故か泣きそうになる。ギュッと抱き締められ、耳元に口を寄せた傑が何かを囁くように小さく言葉を漏らした。聞き取ろうとして顔を近付けようとした時、頬に触れる感触。傑の方を振り向くより早くそれが唇だと気付いた時には既に傑は離れていた。


「傑!」
「誕生日プレゼント、貰っておいたよ」

ニヤリと意地の悪い顔で笑う傑の肩を叩いて抗議しても全く効いている様子はない。そんな私たちを冬の朝が柔らかく包み込んだ。