シュレディンガーの猫が笑う


街中で懐かしい顔に出会った。
最後に会った日をはっきり覚えているほど私にとっては大切な人だった。意図も意味も分からず彼が消えてからもう7年経った。会いたいと思うときは会えなくて、こうして忘れようとしている時に限って現れるのだから、神様なんかいないと思わざるを得ない。


「久しぶりだね、なまえ」
「夏油先輩は変わりないですね」
「人間なんて見た目は早々に変わらないだろう」

声も人相も変わらない。私が好きで、私が憧れたあの人のまま。服装と立ち位置が違ってしまったことが本当に悔しい。


「なまえ、私を捕まえなくていいのかい?」
「自分じゃ適わないって分かってるので」
「そうか。なら援軍でも呼ぶ?」
「いいえ、それより飲みに行きませんか」
「…どうして?」
「酔わせて捕まえる作戦です」
「ならたくさん飲まないとな。行こうか」


夏油先輩は単純な人間と非術師が嫌いだ。自分のほどほどのポテンシャルと、ほどほどの知性をフル活用して導き出した答えは時間稼ぎだった。女であることを抜きにしても、私の憧れた夏油先輩に適うはずもない。


「悟は元気にしてる?」
「元気かどうかは分からないですけど、変わらないですよ」
「皆が頭を痛めてるのが想像できるよ」
「夏油先輩は変わっちゃったんですか?」
「…どうかな。高専に居た頃が偽りの自分だったのか、本当の自分だったのかすらもう覚えていないよ」


バーのカウンターで二人並んで座る。夏油先輩はバーボンのストレートを、私はマティーニを啜る。私たち以外の客が居ない店内は、バーテンダーがグラスを磨いているだけだった。目の前に置かれたナッツを口に含んで昔話に花を咲かせた。五条先輩を悟と呼ぶその声は昔と変わらない。私の好きだったあの頃のままだ。


「そういえば硝子さん禁煙したんですよ」
「へぇ」
「けどお酒は止めらんなくて、私がいつも付き合わされてて」
「それは大変そうだ。いいこと教えてあげよう」
「なんですか?」
「午後は硝子に会わない」
「そんなの無理じゃないですか」
「逃げるが勝ちだよ」


夏油先輩があのまま高専に残っていたらどうなっていたかを、想像したことがある。そのもしもの世界に、居るような気持ちになった。きっと任務の後に一緒に食事をしたり、飲みにいったり、愚痴を聞いてもらったり、そんな普通な日々を過ごせていたと思う。やっぱり私にはわからない。どうして違う道に進んでしまったのか。いや、分かろうなんてことが烏滸がましいんだろう。だから、硝子さんも五条先輩も、夏油先輩を追わないんだ。普通ってなんだっけ。



「そろそろ行こうか」

どれだけ飲んだだろう。夏油先輩は顔色一つ変えることはなく、情報を引き出すことは出来なかった。むしろ、私ばかりが話していたような気がする。あの頃のようで楽しかったのはきっと私だけ。あっけなく帰ろうとする夏油先輩の姿に悲しくなった。

会計を済ませ、バーの外に出る。街を行きかう人は忙しないのに、私は別れの言葉を言いたくなくてその場に立ち尽くした。きっとそんなめんどくさい女は嫌いだろうことは分かっている。けれど、寂しくて泣いてしまうのを我慢するだけで精いっぱいだった。


「じゃあ、またどこかで」
「酔ってるけどいいのかい?」
「そんなの先輩と長く居たかっただけの私の戯言です。気にしないでください。本当に捕まえられるなんて思ってませんから」


最後に顔を見よう、これが今生の別れになるのかもしれないのだから、と顔を上げた。息をしなければ、瞬きをしなければ涙は零れまいと覚悟を決めて。なのに、目が合った夏油先輩は優しく笑っていて、思わず瞼のシャッターを下ろしてしまう。


「はは、ダメだ。やっぱり酔っているようだ」
「だから、もう、フリはいいですから」
「私のせいにしていいから、なまえを連れ去ってもいいかな?」

きっと私はずっとそれを望んでいたのだと思う。そうして私はようやく自分の生きたい道を進むことが出来た。神様なんかやっぱりいない。少なくとも私の人生には。


リクエストは、夏油さんで「酔ってるけどいいの?」の言葉を使ってでした。
リクエストありがとうございました!