Chapter1


もしも、

ふとしたことで世界を踏み越えてしまったら。

仕事の行き帰りは電車だ。
その帰りの電車の中で、眠ってしまいそうだと意識したことを覚えている。
駄目だ、今寝たら寝過ごしてしまう――懸命に目を開けていようとした。
けどこの時の眠気は抗しがしたいものがあった。

ぱち、と

目を覚ました。もうすぐ〇〇駅といつも利用している駅の名前が告げられる。
けどおかしい、さっきもうつらうつらしながら、同じアナウンスを聞いた気がする。
電車が駅に着く。ぷしゅー、とドアが開く音に、習慣で立ち上がる。
後で気付いたのだけど、車内に人はいたのに、しんと不自然な程に静かだった。いつも何人かは降りるのに、今日ホームに降りたのはわたし一人だった。

部屋に帰る。古いアパートの一階、二階へ続く階段の裏側にあるわたしの部屋。
薄暗いがいい部屋だ。しかし……鍵が合わない。
わたしの部屋、だよな……?
不審に思い、表札を確かめてみる。
うえした、と読むのか上下という不思議な名字が、わたしとは違う字で書かれていた。
意味が分からない。アパートを退去した覚えなどない。
しばらく鍵をがちゃがちゃ言わせていると、ドアが開いた。ドアチェーンがかけてあり、その鈍色の奥に覗いた人の顔。
覗き込むような睨め付けるような。
「何?」「あ、すみません」
思わず謝ってしまったが、
「……あの、ここ、わたしの部屋ですよね?」
そう、絶対に間違ってはいないはずだ。わたしはその、全く見覚えのない中年の男に困ったように問うた。
「はあ? 」
男は顔をしかめ、変な話ならお断りだとにべもなくドアを閉められた。
――……おかしなことになっている。
大家さんに確認しようと鞄から取りだそうとしたら、スマホはどこにも見当たらなかった。
家に帰れない、スマホもどうやら落としてしまった……。
こんな時、番号だけで繋がっているものへの弱さを感じる。
幾つか接点[つながり]をなくしてしまった……。
しかし一体、何がどうなっているのだろう。



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