chapter1


「どうも」
夜、病院を出たところで、そんな声が聞こえた。わたしたちの中では、精神病は移るというのが通説で、ついにわたしも、幻聴が聞こえ始めたのかと思った。
それはここで聞くはずない、と思っていた声だったから。
「センセ、お疲れさま」
病院の白い壁を軽く蹴って離れたのは、黒いコートを着た恐山君だった。

季節は春だが、夜になればまだ寒かった。
前に彼が運ばれてきて会ったのが秋か。時が流れるのは早い。
――こんな場所で、たまたま、居合わせるはずがなかった。
この三門病院は町を見下ろす高台にあり、普通に暮らしている人にとっては、ここまで上ってくる理由はあまりない。ま、近くに、わき水を利用したパン屋とかそば屋があるけれど、それもこんな時間じゃ終っているに決まっている。
わたしは、声を掛けられて、一歩逃げた。白衣を脱いだわたしには、なんの威厳も権限もない。それに、診察の時の態度から、恐山君がわたしのことを全く信用していないことは知っている。
「何の用?」
と何気なく鞄を守るように抱き寄せて訊いたら、
「あはは、随分信用がないことで」
と笑った。
「それはお互い様だろ」
「なるほど。そっちの真顔が地ですか」
わたしに素っ気なくされても、恐山君は楽しそうだった。

わたしは私生活では、彼のようなタイプとは一切関わりがない。
壁がないと言えるのかもしれないが、棘がないともまた言い切れない。それに加え、診察の時のあの態度。
いきなり現れた彼を、怪しまない訳にはいかない。
そもそも具合が悪いのなら、患者としてくればいいのであって。
何の用もなければ、こんなところでわざわざわたしを出待ちする意味などない。
「……何か、込み入った事情?」
恐山君は一瞬目を丸くして、それから笑った。その笑みが、少し弱々しく見えた。
「ちょっと、聞いてもらいたい話があるんです」
こういう場合のちょっとが、ちょっとで済んだことなど未だない。
それどころかこうやって持ち込まれる話の大概が、深刻な話だった。



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