夜の檻


乱れた吐息に混じる俺の名前。
今じゃ親にしか呼ばれない名前。
なんかね、恐山のほうが俺には名前より似合うらしくて、人から名前で呼ばれることなんて殆どない。
二人きりの時だって、そんな風には呼ばないのに、呼び慣れない名前を使いたがるのはどうしてだろ。特別なんです、と演出したいのか。

空々しい、と思う――この行為自体。
俺がそうやって醒めたのは、結局終わり方だったけれど。
……どうしようもないな、俺は。
夜も遅い。相手がくたびれて寝てしまうのも仕方ない。
「風呂は……明日の朝でいいか」
頭をかいて、声を出して自分に言い聞かしてみるけど、朝が弱い俺は果たして起ききれるかどうか。
「……あー、」
と声が出た。この“あー”は何の“あー”か? 自分でもよく分からない。
身体はもうくったくたなのに、俺は煙草を吸いたくなった。

夏も終わるのかベランダに出ると少し寒い。
町の灯りは暗すぎて、それでも空に星は見えなかった。

丁度一本目を吸い終わるとき、プルルルルと切り忘れていた携帯が鳴った。ひっかけてきた上着のポケットに入っていたらしい。
携帯の窓に映った名前を確かめて、
「はい」
一瞬で覚悟を決めて出てみれば、息を詰めたのは相手のほうだった。
「…………出るとは思わなかった」
「そりゃどうも」
言いながら俺は、口から抜き取った煙草をベランダに落として履いていたサンダルで踏みつけ消した。
「珍しいな、何をしてた?」
なんて訊かれて、普段ならからかうところだが、今し方のことを思えば冗談にならない。
それに矢内の声はやたらゆっくりとした口調で優しい。付き合いの長い俺にはそれが、思いっきり泣いた後か、本気でヤバいときの二択しかないってよく知っている。
「何かいいことしてたのか?」
って何気に鋭いし。
「アホか、偶々だ」
と言いながら俺は、嘘を吐く罪悪感を募らせる。
そうか、と物憂く黙った矢内を、そっと促した。
「久しぶりだな――そっちは、どうした?」
「急に声が聞きたくなって」
可愛いことを言ってくれる。
つい笑ってしまったが、胸に広がるのは苦い苦い思いだ。

何でもいいから、喋っていてくれないかと矢内が言うから、俺は最近あったことを話した。
仕事でのトラブルや、居酒屋の期間限定メニュー、どこそこの紅葉が毎年とてもきれいらしくて……。
最初はなにを話そうか、なんて悩んだけど、喋り出すとなかなか止まらなかった。しばらく会わないうちに、どうでもいいような、しかし話したいことが、たくさんたまっていたみたいだ。
うん、うんと矢内は時々相づちを打つ。
矢内はだだっ広い部屋で一人、大真面目に頷いているのかもしれない。俺も、背後の壁にもたれて目を閉じ話していた。

「でさ、」
俺はそこで喋るのを止めた。
電話の向こうはさっきからずっと無音。
「……矢内、寝たか?」
たまらず尋ねてみた。
「……いいや、」
と返ってきた矢内の声は、今すぐにでも泣き出してしまいそうな声で。

「どうしよう、会いたくなってしまった」


あーあーあーあと、地団駄踏みたい。
大人だから、夜だから、堪えてはみるけどさ。
寂しくて電話をかけてきて、声を聞いたらもっと寂しくなりました、とか――馬鹿だろ? そんなこと言われたら、俺が矢内にしてやれることは何もなくなる。

「……矢内、」
「ん」
と聞こえているのかいないのか生返事。
「喘ぎ声、聞かせろよ」
「うん……」
またしても生返事で頷いた矢内は、しかし俺に要求されたことがなんだかようやく気付いたらしい。
「な、何だっていきなり……」
と流石に慌てた。
「いいからして」
通話を切られるかと思った。

だけど、またしばらくの無言のあとに



たぶん矢内のそれはフリで、全部嘘っぱちだけど。



なんて可愛い女なんだろって思った。

思って、しまった。



「すまん、もういいか?」
いい加減恥ずかしさに耐えかねた矢内が、そう訴えてくるまで何も言えなかった。
「ああ、」
答えた声に元気がなかったのがばれたらしい。今度は生でそのフリを聞かせてやろうと言う。
俺も俺だが、矢内も矢内だ。
演る前と演った後で明らかに矢内の声が元気になってるのはどういうことだ? バカバカすぎて気が晴れたのだろうか?
……ま、他人の性癖にアレコレ難癖付けていられるほど、俺も平和じゃないけれど。

「――……なぁ、今度、いつ会える?」
「そうだな、」



夜の檻 了

時々引き裂かれて死んでしまいたくなる。



- 31 -

*前n | 戻る |次n#

ページ:

*