Chapter9


「矢内……」
不意に名前を呼ばれ、口唇を重ねられる。
わたしのことを矢内と確かめた恐山のキスは、びっくりするほど優しかった。
抱き締め返して、全て受け入れたかったけれど、キスだけで済むはずがなかったのだ。
気付けば首筋や、胸元にまで落ちてくるキス。
思わず恐山の身体を押すが、恐山の指は簡単にわたしのシャツのボタンを外していく。
「恐山」
慌てて、その手を両手で掴む。
抵抗されない。代わりに至近距離で、恐山と目が合う。

「恐山、わたしは……」
ぎゅう、ぐるるるるるる……。

大事なことを伝えようとしたわたしの言葉に、わたしのお腹の音が盛大に被る。
「……ふ、」
と小さく吹き出して、恐山が肩を震わす。
わたしはもう恥ずかしくて恥ずかしくて、何も言葉にならない。
恐山は、わたしの額と自分の額をちょんと重ねてから、あっさりとわたしの上から退いた。
「……何か食べようぜ」
と言って、わたしの手を引いて立たせる。そのまま、台所の方へ向かった。
台所までは別に手を引かれて歩くような距離ではない。それでも、恐山はわたしの手を離そうとしなかった。
「――と、言ってもカップ麺しかないんだけどな」
天ぷらそばときつねうどん。こっちがいいと一も二もなくきつねうどんを選ぶわたしを見て、恐山は小さくため息を吐く。
台所の小さなテーブルで、顔を突き合わせてカップ麺を食べながら、さっき七瀬にはすっかり話したここへ来た経緯を、恐山にも話すことになった。
「会社帰りに電車を降りて、自分のアパートに帰ったら、わたしの部屋には別の人が住んでいたんだ」
「そこはもう結果なんじゃないの」
「へ?」
「……」
恐山は天ぷらそばを食べながら黙[だんま]りする。当事者であるわたしより、考えることがあるらしい。
「矢内さ、」
「何だ?」
「ちゃんと幸せだった?」
その問いに、ぴたと箸を止める。
頭を過るのは恐山と離れて過ごした数年のこと。
……今も恋人がいる君のこと。
確かにわたしは、君のお陰で、一人でも生きていけるくらい、強くなれた。
でも今、君と離れて過ごす日々は、果たして。
「――幸せ、だったぞ?」
わたしは上手く笑えているだろうか。
「何でそんなこと訊くんだ」
「……ならいいんだけど」
「うん」
そう言ってわたしは何でもない顔をして、麺をすする。
こちらの世界のわたしは、恐山と一番仲が良い時に、訳も分からないまま死んで、きっと幸福だったろう。
少しだけそんな、意地悪なことを思った。



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