さまよえるオランダ人

 翌朝、一行はシンガポールを出るために列車に乗った。いつの間にか家出少女の姿がなくなっていたが、約束の時間が来て父親に会いに行ったのだろうとアヴドゥルが言う。しかし隣の車両に家出少女が乗っていることに千里は気付いていたが、それを皆に告げることはなかった。
 インドへ到達した一行を待ち受けていたものは口々にバクシーシと言いながら群がってくる物乞いたちであった。その異様さに皆面を食らったようであったが、これだからインドはいいところなのだとアヴドゥルは笑いながら言う。一行の最後尾を歩いていた千里も例に漏れず乞食にたかられるも気にする風もない。どさくさにまぎれて無遠慮に体を弄る手もあったが軽く体をひねることでそれを振り払っていた。あまりにも汚すぎると嘆くポルナレフの横でジョセフがそれに気付く。

「千里、どうしたんじゃ? 服に変なものでもつけられたのか?」
「……いえ、なにも」

 呟くように返しながら、千里の右手を握ろうとしてきた節くれ立った手をするりと避ける。胸をつつく肘や臀部や大腿部を撫でる手も同じようにして避けるも、なおも伸ばされる手、手、手。大腿部を触れられた際、爪を立てられたのかタイツが伝線してしまっていることに千里は気が付いている。そして大抵のことならば気にはしないが、スカートの下に潜り込んでくる手にはさすがの千里も不快感を覚えた。しかし物乞いの数が多すぎてどの物乞いが痴漢行為を働いているかわからず、またバクシーシと叫ぶ乞食にまとわりつかれてしまっては思うように身動きが取れない。さらに千里は一行の中でも一番背が低く、成人男性の乞食の陰に埋れてしまうために一行が千里の状況に気付くことは困難であった。
 過激な痴漢の手を避けながら千里はふと一人の乞食の手が花京院の懐から財布をすり取る瞬間を目撃した。面倒なこともあるものだと、千里はマフラーを引っ張り施しをよこせとまとわりつく子供の間をすり抜けて、乞食の手から花京院の財布を抜き取る。そしてポルナレフが牛の糞を踏みつけて悲鳴を上げるのを聞き流しながら物乞いを掻き分けて花京院に近付いた。
 そのときようやく花京院は自身の財布がなくなっていることに気が付いた。内心真っ青になりながら学ランやズボンのポケットを探るのだが、財布はどこにもない。すられたのだと理解し、そして千里が自身に近付いてくるのが視界の端に見えたためそちらへと体を向ける。千里が花京院に片手を差し出そうとするような動作を見せた。
 しかし突如背後から伸びてきた両手が千里の胸を鷲掴む。明らかに男の手とわかるそれに花京院は言葉を失った。それまで痴漢に動じなかった千里もさすがに体を硬直させる。友人の違和感に気付いた承太郎が振り返り、そして花京院の表情に眉をひそめながらその視線の先を追って、大きく目を見開いた。あまりにも異様すぎる光景だった。さすがに無表情を貫くことは無理だったらしい千里も珍しく不快感を表情に表す。人の気配に敏感だといっても溢れんばかりの物乞いの中から痴漢を働こうとする物乞いだけに気付くことはできなかった。千里が硬直するその間も痴漢の手は千里の胸を無遠慮に掴み、揉みしだいている。犯人は明らかに千里の真後ろの男なのだが、気付かれていると知りながらも痴漢行為を続けている様子であった。男の表情は痴漢される方が悪いと言いたげに慣れた手つきを承太郎と花京院に見せている。
 そしてさらに新たな手が千里の体に痴漢を働く瞬間を目撃してしまい、二人は瞠目した。めくれ上がるプリーツスカート。黒タイツは伝線し、穴が空いている。千里の表情がさらに険しくなった。
 そのとき、ボタンの付け方が甘かったのか、男の力が強すぎたのか、千里の着るカッターシャツのボタンが一つ弾け飛んだ。しかもちょうど胸元のボタンであったために、その部分だけカッターシャツの下が露出する。ちらりと見えた肌色を前にして先に正気を戻したのは承太郎であった。

「オラァッ!」

 承太郎の拳が後ろの男に向けられたと理解した瞬間、千里は全力をもってまとわりつく手を振り払い、しゃがみこんだ。承太郎の拳が乞食の顔面にめりこむと同時に、しゃがみこんだ状態から後ろへ蹴り上げられた千里の足が乞食の腹に沈み込む。そのまま乞食の腹に沈み込んだ足を軸にし、地面につけた両手をバネに跳ね上がって体を反転させ、倒れる乞食を踏み台に上体を起こす。そして乞食を踏みつけたまま左手に発現させたプラネット・スマッシャーズを乞食の心臓部に押し付けた。引き金にかかる人差し指に力を込める。

「おい、やりすぎだ」

 承太郎の手が千里の左手を押さえつけた。引き金を引く手を止め、千里はまたあの無表情に戻った顔を承太郎に向ける。その視線を承太郎は気にすることなく、千里の左腕を掴んで花京院へと力任せに投げ、そして自身は群がる物乞いに邪魔だと一喝した。
 その騒ぎにどうしたのかとジョセフたちが振り返る。承太郎に投げ飛ばされた千里を受け止めたはいいが、巻き込まれるようにして尻餅をついてしまった花京院が状況を説明しようと口を開きかけたが、それより先に千里が差し出したものによって声を発することを忘れて中途半端に口を開いたまま千里を見つめることとなった。

「それは、ぼくの財布……?」

 黙って財布を花京院に押し付けた千里はさっさと立ち上がり、自身の無残な格好を見下ろす。胸元のボタンが弾け飛んだカッターシャツ、伝線して穴だらけの黒タイツに眉一つ動かすことなく、素早くマフラーを取り、折りたたんで使用していたそれを広げて肩を包み込むようにまとった。マフラーよ言うより大判のストールのサイズがあるそれは、千里の肩からへその上辺りまでを見事に覆い隠してしまう。ただ、シンガポールで買ったためか薄手であるために広げて使用すると透けてしまうが。今までの千里ならばそのまま放置したところだが、痴漢の多さにはさすがに辟易したのである。またそのような格好をしていてはジョセフやアヴドゥルから苦言を呈されることも身をもって学んでいた。しかし穴の空いたタイツはどうすることもできない。

「千里。痴漢とはいえ相手はスタンド使いでもねえ、ただの一般人だ。無闇に殺す必要がどこにある」

 物乞いを追い払った承太郎が千里を睨み付けた。不良とよばれる承太郎にも良識くらいはある。自分より弱いものを傷付けることをよしとせず、それを悪だと決め付ける信念を持っていた。そのためスタンドで一般人を殺そうとした千里の行動を見咎めたのである。確かに度の過ぎる痴漢行為を受けてはいたが、それを殺すとなれば話は別だ。千里が痴漢を蹴り上げたことはまだ許容の範囲である。そのまま肉弾戦に持ち込んでいれば気にはしなかった。
 承太郎は男であるため、女性が痴漢に遭ったときの恐怖や嫌悪感というものをなかなか理解できない。よしんば理解したとしても、殺すことはよしとしなかっただろう。また千里も千里で一般的な女性とは一線を画していた。痴漢を鬱陶しいとは思いながらも嫌悪にまでは至らず、大胆な行為になってようやく顔をしかめるほどである。そこに嫌悪はあれど恐怖はなく、また害意のある者を殺すことに抵抗はなかった。そして殺される前に殺すというシンプルな思想を理解していた。つまり、承太郎と千里とでは正義や良識といったものの基準や範疇が違っていたのである。しかしそれは生まれ育った環境や周囲からの影響によって決まるために同一でなくて当然だ。
 弁解しない千里に承太郎は眉をひそめたが、千里の手になにも握られていないことを確認してこの問題はひとまず置いておくことにした。なぜなら花京院から事情を聞いたジョセフとポルナレフが騒ぎ出したからである。千里も鬱陶しそうにアヴドゥルの陰に隠れてしまう。アヴドゥルは注意が足りなかったと申し訳なさそうに千里に謝罪していたが、千里はただ目を伏せただけであった。そこに罪悪感の欠片はない。

「ぼくの財布については礼を言おう。……でも、承太郎の言う通りだ。殺意のない者を殺してはいけない」

 再度盗まれないように学ランの内ポケットに財布をしまい、花京院は千里を諌めた。花京院は承太郎よりも幾分か女性に対して理解がある。それゆえ痴漢について女性の立場から考えることもいくらかできた。そして無意識ながらも千里は女性なのだから守るべき対象なのだと思い込んでいる節がある。だからどこかで千里が罪を犯すことに抵抗を感じているのかもしれない。しかし殺意のない者を殺してはいけないなど千里からしてみれば詭弁であった。