浄められた夜

 十五分くらいはそうしていただろうか。承太郎が空き缶を投げ、千里が撃つ。それを繰り返してようやくやめたのは、空き缶が真っ二つになったことがきっかけであった。度重なる銃撃を浴びた空き缶は見るも無残な姿になっていた。最後の一発はプラネット・スマッシャーズではなくS&W M19であった。一発目とは違い、千里は片手で撃ってみせる。最初のは銃の具合を確かめるためだったのだと承太郎は理解した。

「わたしは、親に売られた」

 銃をホルスターにしまいながら呟く千里の言葉は唐突ながらもガンジス川の流れに掻き消されることなく確かに承太郎の耳に届いた。承太郎は眉をひそめる。千里の言葉はいつも単純で明快であるから理解には苦労しない。しかし言葉の意味を理解することと、自身の中に溶け込ませることは別である。そして承太郎はその意図を掴みかねていた。それがここにくる間に尋ねた質問の答えであることはわかる。しかしわからなかった。

「解せねえな。なぜ今それを言う」

 やはり千里は答えない。事実ばかりを提示して、あとはなにも見せようとはしない。バックグラウンドにあるだろう感情もなにもかもを千里はおくびにも出さず、ただ淡々と語るばかりだ。

「親を恨んでいるのか」
「興味もない」
「なぜ」

 視線も向けずに呟いていた千里の声が途切れる。答えたくないのか、それともいつものように答えないだけなのか承太郎には判断しかねた。だがすとんとなにかが落ちたように納得した。好きの反対は無関心だという誰かの言葉を理解したような気がしたのだ。千里にとって親など取るに足らない、道端の石ころ以下の意識の範疇に入れる価値すらない存在なのである。それに、承太郎には他人の家族関係に口を出す気などさらさらない。万人がみな同じだと端から思っていなかった。
 ガンジス川沿いに千里が歩き出す。承太郎はそれについて行くのだが、ホテルとは真逆の方向であることには気が付いていた。千里にはホテルに戻って休むという概念がないのか、それとも花京院が部屋にいるからなのかはわからない。月明かりばかりが眩しく。ガンジス川の水面がキラキラと輝いた。

「あんたら恋人かい? 永遠の愛を誓うならよく効く魔法の薬があるぜ」

 暗闇から見るからに尋常ではない男がすり寄ってくる。この類の人間はどこの国にでもいるものだ。その手にはアルミの包みがあり、男が開ければ明らかに怪しい粉が入っていた。邪魔だと承太郎が手で追い払おうにも男は執拗についてくる。千里は決して男を見ようとしなかった。
 まさか喧嘩の最中か? そりゃあ悪いところに出くわしちまったな。けどな、こいつをつかえば一発で仲直りできるぜ。使い方はいくらでもあるんだが、女をご機嫌にするにはな、ヒヒ……男のアレの先っぽにちょっぴりこいつをまぶすんだ。そんで突っ込んでやればどんなに臍を曲げた女でもイチコロよ。すぐにヒイヒイ泣き出すぜ。どんなにお高くとまった女でも、もっとちょうだい奥までちょうだいってな、売女みてえにはしたなくなっちまうのがまたたまらねえ。いいか? ちょっぴりつけるんだぜ? つけすぎはいけねえ、初めてにゃちょいときつい薬だからよ。今なら安くしとくから。な、いいだろ? あんただってその女が乱れたところを見たいだろ? なあ、なあったらよ。
 馴れ馴れしく肩に触れた瞬間、承太郎の拳が男の顔面を殴り飛ばした。男が持っていた粉が地面に落ちて風に飛ばされる。千里はそれを一瞥し、承太郎を見上げた。相変わらずなにを考えているのかはわからなかったが、ゴミに構うなと言っているようであった。

「ちくしょうがあァァッ!!」

 骨が折れたのだろう鼻を手で庇いながら男がよろよろと立ち上がる。指の隙間からぼたぼたと血が垂れているのが月明かりでよく見えた。ポケットから折りたたみナイフを出した男は切っ先を承太郎と千里に向ける。なにかを叫んだようだが聞くほどの価値もなく、ただのナイフ程度承太郎の前では凶器にもならない。襲ってくるのならば再起不能になるくらいには痛めつけてやろうと考える承太郎の横で千里が動いた。ゆらりとホルスターからマグナムを抜く。鉄槌を引いて銃口を男に向けたと承太郎が認識したと同時に吐き出される銃弾。それが男のナイフを持つ手を貫くまでにさほどの時間もかからなかった。なにが起こったのか理解できていないのか、男は間抜けな顔をして自身の手と千里を見比べている。だらりと垂れた右手とは正反対に千里の左手はまるで固定されているかのようにぴくりとも動かず照準を合わせている。そこでようやく男も銃の存在を悟ったらしい。撃ち抜かれた手を庇いながら無様な悲鳴を上げて逃げていく。

「殺すかと思ったぜ」

 千里の後頭部すれすれに出していたスタープラチナの拳を引き、感心したように承太郎が呟く。敵意と殺意を向けたとはいえ、男は取るに足らない一般人である。承太郎はまた千里が殺そうとするのかと思ってスタープラチナで昏倒させようとしたのだが、千里の狙いがナイフだと気が付き、間一髪でスタープラチナの拳を止めたと同時に男の手が撃ち抜かれる。千里は最初から男を殺す気などなかったのである。
 そこにどのような心の変化があったのか承太郎にはわからない。だがスタンドではなく本物の銃を使った理由はなんとなくわかった気がした。一般人にも見えれば持っているだけで充分な脅しになる。その一片はすでに昼間見ていた。道行く人々の中で目敏くそれを見つけたものたちの反応。無用な争いを避けるための効果を持つことがあることはたった今証明された。銀弾は間違いなく対DIO用だろう。だがS&W M19は銀弾を撃ち出すためだけというわけではなかった。

「……気休めだ」

 酷くつまらなそうに千里が呟く。スタンドを使わなかったのは、またとやかく言われるのが煩わしいからという理由があった。実弾であるマグナム弾は消耗品のために購って補充しなくてはならないが、それでも大多数のスタンドが見えない一般人に対しての効果を考えれば決して高いものではない。どうせ千里の金ではないから気にすることでもなかった。
 ホテルに戻るぞと承太郎は千里を促したが、千里は踵を返す様子を見せない。戻る気がないのかと承太郎は訝しみ、そして部屋に残る花京院の存在を思い出す。一人にしてしまってはいるが、ジョセフとポルナレフが隣室であるからなにかあってもおそらく大丈夫であろう。しかしいつまでも一人にしておくわけにはいかない。

「まさか花京院のことを気にしているのか?」

 あるはずがないと思いつつも、承太郎は千里に尋ねる。千里がちらりと承太郎を見た。そして視線を外す。真意は読めない。

「なぜ」
「てめえが他人の心配をするはずがないとは思ったが、念のためだ。――それともホテルに戻りたくねえ理由でもあるのか」

 探りを入れるような承太郎からの視線を受けながら千里はガンジス川の流れを眺める。聖地ベナレス、正確にはワーラーナシーと呼ばれるこの街は輪廻から解脱することのできる街だという。死ねばその遺体はガンジス川で清められ、荼毘に付されて遺灰はガンジス川に流される。また、ベナレスは別名「大いなる火葬場」と呼ばれるように年中煙が絶えることはなく、過去の文書には火葬場のために街が存在していると記されるほどだ。ゆえにこの街には死を目前にしたものたちが集まる。死の香りはあちらこちらから漂っていたが、決して不潔なものではない。輪廻から解脱することを夢見て静かに死出の地へ向かってゆっくり歩みを進めているのである。ヒンドゥーの民は皆一生に一度、この街を訪れることを夢見ている。神聖な街なのだ。
 承太郎の問いに答える気のない千里は聖なる川をしばらく眺めたのち、踵を返す。どうせ寝やしないのだからホテルにいるだけ無駄なのだが、承太郎という目付役がいては自由に行動もできず、またそれを無理矢理にでも撒いてしまおうとも思わなかった。どうせ夜明けまで数時間ほどしかない。承太郎が寝たところを見計らって外出してもいいし、ベッドの中で数時間我慢していてもいい。眠らずとも体を横にするだけで休息は取れる。これから先も似たような夜を何度も過ごすことになるのだろうから、毎度毎度誰かについてこられても困る。ならば皆が寝静まったあとに抜け出すことにしようと千里は考える。大抵のことは気にもかけない千里ではあるが、毎度続けばさすがに煩わしさを感じる。無駄に逆らってまでして我を通す気もない。生と死が混同する境の街の夜はあまりにも静かすぎた。