なぜ境地を隠してしまうのかわからない

 いつもよりやや早い時間に花京院が目覚めると隣のベッドで承太郎が静かな寝息を立てて眠っていた。静かな朝だ。そういえば昨晩千里を追いかけて出て行ってから、花京院がベッドに入るまで戻ってこなかったことを思い出し、いつの間に帰ってきたのだろうかと考える。目覚めなかったのだからおそらく深い眠りに沈んだころに戻ってきたのだろう。朝食までまで時間があることだし起こさないようにと花京院はそっとベッドを抜け出す。承太郎を挟んで向こう側のベッドを見る勇気はなかった。一言千里に謝ればいいだけの話だが、どうしてだか花京院はそれができない。千里の行動は結果的に正しかった。しかしあくまで結果論である。花京院が謝罪すれば、それは千里の行動を肯定することになる。それだけはしてはいけないという気がしているのだが、しなければしないで事情も問わずに殴ってしまった負い目と罪悪感に苛まれる。
 自分のベッドから離れて承太郎の足元を通り過ぎ、次のベッドの前を通ろうとしたところで花京院は意識せずとも緊張してしまう。どうしても気になってちらりと横目に見てしまったが、ベッドには誰もいなかった。しかし使用した跡はある。気付かないうちに千里は部屋に戻っており、そして出て行ったのだろう。朝早くから千里がどこに行ったのか花京院にはわからない。最低限の協調性を持ち合わせてはいながらも、千里は常に一人であった。拒絶はしていないながらも肯定もしていなかった。花京院は未だ千里との接し方がわからずにいる。
 洗顔を終えて洗面室から花京院が出てきても変わらず承太郎は眠っていた。起こさないようにと極力音を立てずに花京院が着替えていると、不意にカーテンの向こう側で窓が開く気配がし、花京院は身構える。窓の外にはバルコニーがあることを思い出すが、もしかしたら敵の襲撃かもしれないとハイエロファントグリーンを発現させる。しかしカーテンを掻き分けるようにして現れたのは千里だった。室内にいるにもかかわらずマフラーを首に巻き、早朝から腰にホルスターをぶら下げている。音を立てずに窓を閉め、着替えていたために半裸になっている花京院を一瞥した千里は、マフラーをしたまま自身のベッドに腰を下ろした。そしていつの間に買ったのか、手荷物から本を出して開く。慌てて花京院がシャツを着ていようとも、目を向けるどころか反応すら示さなかった。静かにページをめくるばかりである。承太郎は未だ起きる様子を見せない。

「千里」

 着替え終え、しばらくベッドに腰掛けて考え詰めていた花京院が静かに口を開く。千里の指先が本のページをめくる。

「どうしてきみにはためらいがないんだ? きみには恐怖がないのか?」

 花京院が前置きや説明をすることはなく、なにがと千里が問うこともない。謝罪より先に出た言葉を花京院は撤回しない。自身の持つ主義や思想、正義などを揺るがせてまでして謝罪をするほど花京院は愚かではない。納得のために必要なものは理解であり、そのためには知らなくてはならない。千里という一人の、花京院とは異なる性質を持つ少女を知る必要があった。以前も似たようなことを考えていたはずなのだが、結局花京院は千里のことをなにも知らずにいる。

「なぜきみは人に銃を向けられるんだ? なぜきみが銃を持たなければならないんだ? なぜきみでなくてはならないんだ?」

 昨日承太郎に向けた疑問と同じものを千里にぶつける。しかし千里の視線が本から上がることはない。変わらぬペースで本のページをめくり続ける。
 花京院は日本生まれの日本育ちだ。イギリスとイタリアの流れを汲む承太郎もまた同様である。ゆえに銃というものに抵抗を覚えるのは当然のことであった。一方、ビターチョコレートの髪にグレーの瞳を持つ千里の容貌は明らかに異国の血が流れていることは確かだが、それでもどこか東洋系の特徴も見受けられた。最初にセーラー服を着ていたために異国と日本のハーフかクォーターか、そのような印象を花京院が受けたのは確かである。育った環境の違いが花京院と千里を隔てる壁を作る要因の一つになっていることは確かであるが、ただ花京院は千里の生まれも育ちも知らない。
 花京院が黙れば静寂が部屋に戻った。静かな朝だ。まだ朝食まで時間がある。

「……なんの幻想を抱いているのかしらないが、わたしにそれを押し付けるな」

 本を閉じ、千里が口を開いた。わずかに不快感を含ませた声色は珍しい。それでも静かな声である。承太郎が起きる気配はない。室内の雰囲気も変わらない。ただ声を荒げることもなく、花京院と千里が会話を交わしているばかりである。眠る承太郎を挟んでのやり取りは確かに壁があった。なにもかもが一致しない。

「そんなことはない。ぼくはただこれ以上きみが人を殺そうとするのを見たくないだけなんだ」
「わたしが人を殺してなぜ困る? 他人の観念に付き合うほど暇ではない」

 読み終えたらしい本をごみ箱に落とし、千里は眼球だけを動かして花京院を一瞥する。ガコンとごみ箱が大きな音を立てたが、花京院も千里も気にはしない。朝だからだろうか、それとも花京院の言葉が非常に不快なものだったのか、普段は茫洋としている千里の双眸も鋭く鈍い光を孕んでいた。灰色の瞳が細くなる。

「わたしはすでに殺されたようなものだ。そう何度も死ねるか」

 千里は一度DIOに敗北した。殺されず、肉の芽によって操られはしたが、あのとき殺されて当然の状況であったことには間違いない。生き恥を晒したとは思わない。しかし千里がスタンド使いだったからだろう、殺されなかった。逆に言えばスタンド使いでなかったら死んでいた。千里は決して忘れない。しかしそれを知らない花京院が反論する。

「ぼくがきみを死なせはしない。この旅は全員が生還してこそ達成されるんだ。だから誰もきみを見殺しにはしない」
「……戯言を」
「ならばなぜ昨日ポルナレフを助けた? 結果的に助けたことになろうとも、きみなら理解していたはずだ。――なぜポルナレフを見殺しにしなかった?」

 ポルナレフが殺されて敵が一人になったところを狙った方がリスクは少ないというのに、あえて千里は人混みの隙間を狙って狙撃した。失敗すれば一般人に直撃したどころか敵に気付かれてしまうおそれがあったというのに。それは千里が自分の腕に自信があったためか、それとも失敗を考えていなかったためか。今となっては誰にもわからない。
 足を組み、千里は指先で自身の膝を叩く。相変わらず灰色の瞳は花京院に向けられたままだ。カーテンの隙間から差し込む光が強くなり、廊下を行き来する足音も次第に多くなる。目覚めるべき朝の訪れを告げているようだ。時計の針はもう間も無く朝食の開始時刻を示そうとしている。

「――きみは質問が多すぎだ」

 千里にしては珍しく、いつもは引き締めているその形の整った薄い唇から小さく溜め息を吐き出した。そして花京院から視線を外し、未だ寝息を立てる承太郎をちらりと見やり、ベッドから立ち上がる。緑色のマフラーを翻して部屋を出ようとする千里を花京院が呼び止める。逃げるのか、まだ質問に対してなにも答えていないじゃあないか。挑発まがいの言葉を聞き流し、千里はドアノブを回して引く。

「千里!」

 千里が丁寧に他人に応えることなどあまりない。花京院などまったく無視して千里は部屋を出て行った。
 やれやれだぜ。ドアの閉まる音に安堵しながら蒲団の中で微動だにせず、承太郎は心の中で呟く。千里には狸寝入りであることがばれていたようだ。時折、寝たふりなど趣味が悪いと言いたげな視線が突き刺さっていた。真夜中ならまだしも、目覚める時間が近づいている中で自然と覚醒しないわけがない。他人の会話が繰り広げられているのならなおさらだ。起きるタイミングも掴めずじっとしていたのだが、自分を挟んで交わされる会話のなんとじれったいことか。千里はそういう人間なのだと花京院は理解していないし、千里も言葉が足りなすぎる。これでは噛み合える歯車も噛み合わない。
 千里に正義や悪といったものはないと承太郎は思っている。ただ自身の信念を頑なに信じて行動しているだけなのだろう。起き上がり、眉間にしわを寄せる花京院に目を向ける。見計らったように起き上がった承太郎に花京院は瞠目した。

「悪趣味だな。起きていたのか」
「あれだけ騒がれりゃあ、誰だって起きる。――千里についてはあまり深く考えるな。あいつはああいう人間だ」
「どうして……」
「確かに質問が多すぎるな。……まあいい。さっさと飯に行かねえとじじいに小言を言われるぜ」

 顔を洗ってくると洗面室に入る承太郎のたくましい背中を眺めながら花京院は眉間にしわを寄せる。どうして誰も千里を知ろうとしないのかわからなかった。