特に問題が起こることもなくベナレスを脱出できたことに一番安堵したのはおそらくジョセフだろう。まだまだ道のりは長いというのにここで殺人容疑で逮捕されては笑えない。
一行はデリーから北へ向かい、そのまま国境を越えて一路パキスタンを目指す。運転はポルナレフが、助手席では地図を片手に花京院が彼をナビゲートする。パキスタンへの道のりはそう複雑なものではなく、分かれ道さえ間違えなければ問題なく到達できる。今までの熱気から一変して、ヒマラヤ近くとなれば肌寒くなる。遠くに見える山々は白く、また荒寥とした景色が寂寞感を誘う。たまに低木が必死に枯れた地面に根を張っているのを見るばかりだ。雨量が少ないのか砂埃を舞い上げながら前方を走る車をポルナレフは追い越した。その少々荒っぽい運転のためか小石が跳ね、今しがた追い抜いた車にぶつかった。
後部座席ではジョセフを真ん中に左右を承太郎と千里が挟むようにして座っている。千里はデリーで購入したジャケットを羽織り、俯いて顔の半分をマフラーの中に埋めていた。眠っているように見える。そんな無骨なジャケットでなくてももっと女の子らしいましな上着があっただろうとポルナレフは言ったが、千里がそれを聞き入れるはずもない。防塵と防寒の目的が達成されればなんだっていいと千里が思っているなどと誰も知る由もない。せめてこのくらいは女の子らしくとポルナレフに買われた緋色のリボンタイに意味はない。
突如なんの予兆もなしにポルナレフが急ブレーキをかけた。突然のことに一行は抵抗もできずに慣性の法則に従うことになる。承太郎は足が滑ってシートから落ちかけ、花京院はダッシュボードに頭を打ちそうになった。ジョセフに至っては運転席と助手席の間から半身が飛び出てしまっている。千里はといえば俯いていた体勢が災いし、助手席に嫌というほど強く頭を打ちつけた。その衝撃に驚いた花京院が振り返る。のろのろと顔を上げた彼女の額は赤くなっていた。鼻血は出ていないが相当痛かったのか、いつもより目が開いていない。
「……千里、大丈夫かい?」
僅かな躊躇いののち、花京院は声をかける。しかし千里は再びマフラーに顔を埋めてしまった。
ポルナレフの乱暴とも言える運転にジョセフは盛大に顔をしかめて苦言を呈す。しかしすぐにそれは違う原因が理由となる。なぜならポルナレフが指差したそこにはシンガポールで別れたはずの家出少女がいたからだ。承太郎も思わずいつもの口癖を呟かずにはいられない。
少女がシンガポールで父親と会うと言っていたのは嘘であった。しかもインドでポルノ写真を相当窃盗していたらしく、両手一杯のそれをジョセフに見せつけていた。一行は驚き呆れるが、千里だけは少女が嘘を吐いていたことを知っている。にわかに騒がしくなる車内で一人瞼を降ろす。熟睡するつもりはない。仮眠程度である。結局、国境につき次第、少女を香港に送り返すことで満場一致する。少女だけは不服だと異議を唱えていたが、それを聞き入れるものなど誰一人としていなかった。
「だってあたし女の子よ。もう少し経てばブラジャーだってするしさ、男の子のために爪だって磨くわ! そんな年頃になって世界を放浪するなんてみっともないでしょ。今しかないのよ、今しか! 家出して世界中を見て回るのは……! そう思うでしょ?」
ジョセフと承太郎の間に座った少女が一人熱弁を振るおうとも、それに耳を傾ける者はいない。小鳥のさえずりよりやかましく、ランクルのエンジン音を掻き消すほどの煩さだ。彼らの旅の理由をなにも知らないために少女は楽しく愉快な旅ができると勘違いしているようだが、実際少女には危険すぎる旅であり、間違いなく足手まといになる。国境で香港に送り返すと言った承太郎の判断ももっともである。第一、少女を旅に同行させる理由もないのだ。しかしついに少女の一方的なやかましさに耐えられなくなったポルナレフがバックミラー越しに少女を睨みつけた。
「それを言ったら千里はどうなるんだ。爪を磨いているかは知らんが、ブラジャーくらいはしてるだろ」
その瞬間、バックミラーに映った少女の目の色が変わったことにポルナレフは気が付いた。なにかまずいことでも言ったわけでもないだろう、と訝しげにそれを見る。少女は気付いたのである。決して忘れていたわけではないが、なんとなくそれを意識の外に置いてしまっていたのである。それほどまでに千里は女の香りをまとっていなかった。
「そうよ……そういえばそうよねッ! ねっ、千里、教えてよ。ブラジャーのサイズはいくつなの?」
「おい、やめんか」
「見た目大きそうに見えないし、Bくらい? でもやっぱりおっぱいは大きくないとねえ……男の子ってみーんなおっぱいが大きい女の子が好きなんでしょ?」
ジョセフの静止も虚しく、少女は千里とポルノ写真を見比べながら溜め息を吐く。そして自身の胸部をペタペタと触って再度息を吐き出した。いつの時代でも胸の大きさは女性にとって悩みの種となるらしい。まだブラジャーをつけていない年頃である家出少女でさえ、ピンナップの女性の胸に羨望の眼差しを向けているのだから相当なものだ。周囲が呆れ諌めようとも少女はなおも千里の胸の大きさについて言及し、ついにはジョセフの膝に手を置いて身を乗り出し、直接千里の胸に触ろうとしたところで承太郎の雷が再び落ちた。千里といえばジョセフの隣で知らん顔である。
ようやく家出少女が黙ったところで、ポルナレフはなんとなしにバックミラーに目を向けた。そこでようやく後続車の存在に気がついたのだが、その車が家出少女を乗せる前に追い抜いた車だと気が付いた。あれほどノロノロと走っていたにも関わらず、いつの間にかぴったりとうしろに張り付いているのである。まさかとポルナレフは驚いた。しかし後続車は確かにあの車である。スピードを上げてみようとも同じ距離を保つ車に多少の不気味さを感じたころ、ジョセフもその車の存在に気が付いた。
「ポルナレフ、片側に寄って先行かせてやりなさい」
「ああ……」
ポルナレフは腕を出してハンドサインを送る。それを受けた後続車はスピードを上げてランクルを追い抜いていったが、前に出た途端一気にスピードを落として再びのろのろと走り出す。巻き上げられた砂埃が車内に入り込み、家出少女が咳をする。ポルナレフの運転の荒さに怒ったのだろうか。
「運転していたヤツの顔は見たか?」
「いや……窓がホコリまみれのせいか見えなかったぜ」
「おまえもか……まさか追っ手のスタンド使いじゃあないだろうな」
見るからにしてぼろぼろの車は車体が埃で真っ白になってしまっており、窓も磨りガラスのように車内が見えないほどに汚れている。承太郎の最後の一言に千里が僅かに瞼を上げたが、すぐにまた閉じてしまった。件の車がスタンド使いと関係していようとも狭い山道、しかも前方を走られているとなると相手をするのは厄介である。仮になにかが起ころうとも、頼もしいとは言い難いがこちらにはスタンド使いが千里を除いて四人もいる。これだけ頭数が揃っていてどうしようもないことはないだろうと判断し、千里は目の前を走る車よりも仮眠を優先させることにした。
件の車の運転席から筋肉質な男の手が出てきた。追い越せと合図を送ってくる。オンボロ車がやっと自分の性能に気がついたのか。追い越してやろうとポルナレフがハンドルを切ってアクセルを踏み込んだ瞬間だった。見通しの悪いカーブで追い越そうとしたポルナレフにも非はあるだろう。しかし前を走る車に悪意がなかったとは言い切れない。突如目の前に現れた大型トラック。しかしあいにく避けることのできない道幅である。正面衝突の四文字が皆の頭によぎる。その中で承太郎が咄嗟にスタープラチナを発現させた。そしてトラックを正面から殴りつける。
スタープラチナがトラックを殴ったその瞬間の衝撃は、ポルナレフが家出少女に驚いて急ブレーキをかけた時の比ではない。ほぼ急停止に近い衝撃から生まれる慣性が微睡んでいた千里に直撃した。つまり、先ほどよりもさらに強く助手席に頭を強打したのである。さらに運の悪いことにランクルは衝撃で浮き上がり、一瞬の無重力状態に陥る。そして空中で一回転したのち、ガシャンと地面に着地した。ランクルに乗っていた全員がしたたかに体をぶつけた。舌を噛まなかったことだけは幸いだろう。