花京院典明という男を千里は理解できなかった。元々理解する気すらないのだから、理解できないという表現はおかしいかもしれない。もしかしたら理解するに値しない男でもあったかもしれない。だから、それゆえに、千里の些細な一挙一動に反応する彼の意図が読めずにいた。読めなくても支障はない。しかし理解できなかった。
千里がリボンタイを結び終えても花京院は変わらずそっぽを向いたままだった。耳までほんのりと赤くなっており、羞恥と戸惑いの感情をうかがい知ることができる。その証拠に花京院の網膜にはキャミソールにカッターシャツを羽織っただけの千里の姿が強く焼き付いてしまっていたし、脳裏に浮かぶのは車の中で千里のブラジャーのサイズに興味を示した家出少女の言動、そしてそこから峠の茶屋で一瞬ながらも密着された体験が芋蔓式に思い出される。旅のメンバーに女性がいる以上、今回のようなトラブルが起きないとは限らず、いちいちそんなことを気にしていたらきりがないとは花京院も理解していた。しかし頭で思うのと実際に体験するのとではまったく事情が違う。現にパニックこそ起こしてはいないが、気まずさと羞恥に襲われている。これで千里が悲鳴を上げたりフォローを入れる性格であったならもっと早く我に返ることができたかもしれない。しかしあいにくなことに千里は違った。悲鳴を上げなければフォローもしない。怒りもしないし慰めもしない。彼女にとって他人などあまりにもどうでもいい存在だったのである。
「すっ、すまない……銃声がしたからきみになにかあったんじゃあないかと思って……」
せめてノックくらいはすべきだった。花京院は取り繕うような謝罪を千里に背を向けたまま口早に言う。家出少女にそそのかされるように背中を押され、同室の承太郎は助けてくれず、そして千里と少女の部屋の前でどんな顔をして入ればいいのか悶々と悩んでいる中での一発の銃声に思わずドアを開けてしまった自身の軽率さを酷く恥じていた。だが敵の襲撃かと勘違いしてもおかしくないのである。千里は敵味方構わず銃を向けるが、むやみやたらに発砲するわけではない。ゆえになにかがあったのだと花京院が思い込んでしまったの仕方のないことであった。しかしそれを言い訳にするにはあまりにも幼稚だとわかっている。だが口からするりと出てきたのはその幼稚な言い訳だった。
花京院が背を向けている間に千里はさっさとカッターシャツとスカートをランドリーバッグに押し込む。タイツを履こうかと思ったがそれはやめた。鏡の破片を踏まないようにベッドへ戻り、裸足のままローファーに足を入れる。ちらりとジャケットとマフラーを見たが、すぐに目をそらした。どうせまたすぐ部屋に戻るのだからそれらは不必要だ。本当はランドリーバッグをフロントに出した足で射撃の練習でもしに行こうかと考えていたのだが、気が乗らなかったのである。それもこれもドアの前で千里に背を向けている男がいるからだった。どうせ家出少女の拙い策できたのだろう男は千里が勝手に夜の町を出歩くのを黙って見過ごすような性格ではないことくらい把握していたし、無理矢理にでも出て行こうとすればついてくるだろうことも想像に容易かったからだ。承太郎のように勝手にしろとは決して言わないだろう。
「――いつまでそこにいるつもりだ」
ランドリーバッグを片手に千里が静かに声をかける。花京院はびくりと大きく肩を震わせ、そしてゆっくりと振り返った。千里と目を合わせようとしないのは気まずさゆえだろう。しかし花京院に向けられる千里の瞳は相変わらずの無機質な灰色を孕んでいた。そこに軽蔑や怒りなどの感情があれば花京院も少しは救われたのかもしれない。だが彼女の双眸はいつも通りであった。いつも通りの、なんの感情も抱いていない、無関心であった。
花京院はそのグレーを直視することができず、慌てて目をそらす。そして視界に飛び込んできたものは床に散らばる鏡の破片だった。そして目を上げれば千里の後ろで無惨な姿になった鏡があった。先ほどの銃声は彼女が鏡に向かって発砲した音だったのだとうすらぼんやりと考える。鏡が関する敵といえばJ・ガイルがすぐさま思い浮かんだが、その考えはすぐに否定される。インドでポルナレフが確かにとどめを刺していたし、仮に生きていて追ってきたのであれば千里が戦闘態勢を解いていないはずだからである。彼女は今ランドリーバッグを片手にまっすぐ花京院を見つめるのだから敵が現れたのではない。
「……どうして鏡を壊したんだい?」
思わず呟いてすぐさま彼は後悔した。以前質問が多すぎると千里に言われたばかりではなかったか。それを思い出してしまったのだが発してしまった言葉は喉に戻らない。慌てて謝罪を口にし、目をそらす。そして学習能力がないのかと内心自身を責める。千里が無駄なことを好まないことは知っているはずであった。ゆえに無意味な行動はしないとわかっているはずだった。ヒステリックを起こして鏡を割るなどという軽率さを持ち合わせないことも理解している。言葉が少ないためにわかりにくいことは多々あるも、千里の行動には無駄がほとんどなかった。ゆえに彼女は無駄を好まない傾向にある。
もしかしたら彼女は花京院に対して呆れを抱いていたのかもしれない。無表情を貫きながらも内心うんざりしていることは想像に難くない。苛々しているとも考えられたがその声色や表情から窺い知ることはできなかった。どうしても千里の前では失言をしてしまうようだと花京院は気まずさを紛らわせるように無理矢理考える。果たして彼女はどのような顔をして花京院を見ていることだろうか。わずかに視線を上げれば、千里は先ほどと変わらずランドリーバッグを片手に突っ立っており、茫洋としたグレーの瞳を彼に向けていた。
花京院の瞳の奥の奥を覗き込むように見つめたのち、千里はベットにランドリーバッグを投げ捨てた。そして結んだばかりのリボンタイをほどき、抜き取る。はらりとタイが床に落ちた。だが千里は意にも介さず、花京院を正視したまま首元からカッターシャツのボタンを三つ外す。ぐい、と襟元をくつろげた。見ろと、決して目をそらすことなく直視しろと言わんばかりのその行動を前に、花京院の視線は白い首筋に吸い寄せられた。否、正確にはその首筋に不釣り合いな四つ並んだ傷痕である。まるではじけたザクロのような色だ。うっすらと赤黒い肉が盛り上がり始めており、そこだけが異様にグロテスクに見えた。千里の視線は花京院から離れない。
「この忌々しい傷を見たくない。だから鏡を壊した……これで満足か」
その傷を千里が嫌っていることは花京院も気付いていた。それを隠すためにマフラーをしていることは理解していたし、無意識に傷に触れてしまうほどに気にしていることも知っていた。しかし面と向かってそれを言われるとたじろいでしまう。どんな表情を浮かべて反応すればいいのか花京院にはわからなかった。妙齢の女性の白い首筋に浮き出た鎖骨。そこに女性特有の艶を見出せないのは、やはり件の傷痕があまりにも生々しい赤黒さを見せているからであろう。
「――まだ、痛むのかい?」
絞り出した声は思っていたものとは違う言葉を発していた。痛みなどもうないだろうに、なぜだか花京院はそう尋ねてしまったのである。千里は声を出して泣くことを知らないのかもしれないと一瞬でも思ったことは確かだ。しかしそれを聞くことは彼女にとって侮辱にしかならないだろう。千里は強い。承太郎と似て非なる強さであろうとも、彼女は確かに強かった。
花京院の言葉がに引っかかったのか、それとも気まぐれなのか、カッターシャツのボタンをそのままに千里はベッドに腰を下ろした。そして「座れ」呟く。その言葉の受取人はどう考えても花京院しかいない。ぴしりと背筋を伸ばし、足を組んで座る千里の声はいつもよりやや低い。不機嫌なのかどうなのか、花京院にはわからなかったが、会話に誘う時点でいつもとは違うとだけ理解していた。一瞬瞠目しながらも花京院は近くの椅子に腰かける。テーブルの上には鍵が無造作に置いてあった。