埴生の宿

 向かい合わせて座ることがこんなにも苦痛になることがあるのだと、花京院は知らなかった。促されるまま椅子に座ったはいいが、肝心の千里はベッドに腰掛けたままなにも喋らない。足を組み、膝の上で両の手の指を絡め合わせて茫洋とした瞳を花京院に向けるばかりだ。果たしてそのグレーが自分を見ているのか彼にはわからない。薄い唇も緩く引き締められたままだ。花京院がものを言うのを拒絶しているようでもあった。相変わらず千里の髪からは雫が落ちる。襟が開かれているために雫は千里の鎖骨に落ち、骨のくぼみに沿って流れた。

「他人ばかりを気にしてどうする。誰も守ってはくれないとわかっているのか」

 ようやく吐き出された言葉が花京院にはあまりにも弱々しいものに聞こえた。それでもいつものアルトであることには変わりないし、感情だって微塵も込められていない。それなのにそれが弱々しく聞こえてしまったのはおそらく千里の視線が花京院に向けられていないためであろう。いつもまっすぐ前を見据える灰色の瞳も今は膝元に向けられている。なにを思案しているのか、長い睫毛は伏せられたままだ。
 花京院は口を開きかけた。しかしすぐに言葉を飲み込む。どんな言葉も千里の心には響かないような気がしたからだ。彼女はいつだって孤高である。善悪以前に自身の信念だけを盲目的に信じているようであった。他人の主義主張を押し付けられることを嫌っているようでもある。それは一度彼女自身から言われたことがあった。花京院ははっきりと覚えている。
 言葉を慎重に選ぶ。千里を前にすると失言が増えると花京院は自覚していた。他の誰かを前にしても、否、今までこれほどまでに失言を重ねることなどなかった。彼はそこまで軽率ではない。むしろ思慮深いはずなのだが、どうしてだか千里を前にするとなにかが狂った。しかしそれはまだ彼がはっきりと自覚できないレベルの、無意識下のものであったために慎重にならざるをえなかった。つまり、どうしてだろうと首を傾げる程度にしか認識していないのである。そして出てくる言葉が反論まがいになってしまうことにも、花京院は気が付いていなかった。

「誰かを守りたいと思うのはただのエゴだ。でもぼくはそんなエゴでもないよりはましだと思っている」
「――他人のために死ねると? くだらない」
「くだらなくてもいい。そう思うのはぼくの自由だ」

 小さく眉をしかめる千里の指先が自身の膝頭を叩く。花京院の言葉が理解できないと言いたげだが、それは行動ばかりに留まる。彼女の陰でヒップホルスターに収まるリボルバーが鈍い光を帯びていた。
 未だ千里の真意を知ることのできない花京院だが、最近一つだけ気付いたことがある。それはただの勘違いや思い込みの類のものであるかもしれなかったが、おそらくそうであろうとなんとなく思っている。しかし千里がそれを意識的にしているのか、それとも無意識下の行いなのかまではわからなかった。わからなくても充分だった。

「けれどきみは優しい。わざわざこうして忠告してくれるのだから」

 馴れ合いをよしとしないから非情になれる。必要以上の関わりに情が生じることをよく知っているようであった。だから千里は花京院に忠告するのである。なにがあっても仲間を切り捨てられるように警告するのだ。それはまた誰よりもこの旅の過酷さを理解しているようでもある。それがすべて自身の想像の中のものだとしても花京院は気にしていない。それを微塵も感じさせないのが千里だ。だから自力で察するしかない。

「ならば理解したな。わたしを守るなどという馬鹿な考えはやめろ」

 守られねば戦えぬほど弱くはない。吐き捨てられた言葉。その裏には自分を第一に行動しろと言っているのかもしれない。ただそれを問い詰めたところで彼女はなにも言わないだろう。一から十までなにもかもを語る性格ではない。語るのは必要最小限だ。言葉が足りないことが多々ありつつも、それでもそれなりに的を射ていた。
 いつも千里に一喜一憂させられてばかりだと自分自身の情けなさに内心苦笑をもらし、花京院は立ち上がる。床に落ちたまま放置されていたリボンタイを拾い、未だベッドの縁に座って足を組む千里の前まで歩み寄った。首筋の傷痕が生々しい。同時にカッターシャツの下のキャミソールの存在に気恥ずかしさを覚えた。同じ年頃の少女のこのような姿を間近で見ることなどなかったからだ。だがいやらしいことは思い浮かばなかった。低俗な感情を抱いていい相手ではないと知っていた。
 開かれたままであるカッターシャツの襟元に手を伸ばす。千里はじっと花京院の行動を見ているばかりであった。信用されているのか、それとも危機感がないのか。おそらくなにがあっても対応できる自信があるのだろう。そう思いながら彼は開かれていた襟を閉じる。千里がなにごとにも無関心であるとは知っていたが、男にこんなことをされていてもまったく無反応であることが少し気になった。

「見せたくないものだったろうに……すまなかった。だが女性がそうやすやすと男に肌をさらすものじゃあない」

 カッターシャツのボタンを留めようとして――手が止まった。キャミソールからわずかにはみでるように見えた引きつれ。それが古い傷痕であることはすぐにわかった。その傷の下を辿れば心臓がある。花京院の視線に気が付いたのか、千里はカッターシャツの襟に触れる花京院の両手の下から自身の手を差し込み、軽くキャミソールを下にずらした。さらに大きくなる引きつれ。細かい縫い傷が残っている。もしかしたら手術の跡なのかもしれない。完全に傷を露出させなくてもわかった。首の傷痕とは比べものにならないほどの酷い怪我だ。

「わたしを最初に殺した痕だ」

 そこでようやく花京院は理解した。少なくとも千里は二度、死にかけた。二度、生き延びた。だからそう何度も死ねないと言っていたのだ。一歩間違えれば死んでいたほどの傷、辛くも生きた。なにがあったのかと問いかけても決して答えてくれないだろう。結局いつも千里はなにも言わない。

「――きみは」

 言葉を飲み込む。それ以上を言ってはいけない気がした。かわりに花京院はそっと千里の手を掴んで一本一本指をキャミソールから離す。シャワーを浴びたあとだからか、ほんのりと温かい手は花京院のそれよりも小さく、また細かったが、豆が潰れて固くなった掌は決して頼りないとは言えなく、同時に彼女の努力を伺えるような気がした。花京院は慎重にそしてゆっくりとカッターシャツのボタンを留める。気を抜けばすぐにでも指先が震えてしまいそうだった。一喜一憂している自分があまりにもちっぽけに思えて仕方なかった。最後にリボンタイを優しく結ぶ。緋色のそれは彼女の首から流れる血のようだ。鉄色の瞳、狼の毛並のような濡れたままの髪、薄く血濡れたような唇から吐き出される息は細い。なにかを言うわけでもなく、ただ花京院の行動をじっと見つめているだけだった。