単なる本ならば途中でもしおりを挟まずに躊躇なく閉じてしまう千里だが、その資料だけは別だったらしい。どれだけ車内が騒がしかろうが彼女だけが別世界にいるようだった。いつもにも増して読みふけっている千里の指先がページをめくる。紙の束が音を立てた。時折承太郎がその手元を覗き込み、眉間に皺を寄せる。今はStone MaskやらBone Needleやらが云々と書かれているが、どうやら医学関係の資料だか論文らしく専門用語ばかりでなかなか内容を理解することが難しい。承太郎は日本人の父親とアメリカ人の母親を持つが、日常どっぷり英語に浸かっているわけではないために資料や論文といったたぐいの英文を読み込むには知識が圧倒的に足りないため苦労する。果たして千里は理解しているのかとその横顔を見たところで表情から読み取ることは叶わない。ただ、先ほどよりも読み進める速度は落ちているようであったから、彼女も易々と読めているわけではないようだ。
あまりにも熱心に千里が読んでいるものだから花京院も興味を持つ。だがあいにく彼も医学の資料となるとお手上げだった。所々の単語はわかっても、結局全体でなにを言っているのかはわからない。それを辞書もなく読み込む千里を素直に感心した。案外勉強家なのかもしれないとうっすら思う。夜に射撃の練習をしていることはすでに周知されており、努力を惜しむことのない性格なのだと皆が理解していた。現に今もDIOを攻略する糸口を探している。そこまでしなければ倒せない相手なのかと思うも、理由はすでに述べられている。千里のスタンドはDIOに通用しない。いたってシンプルな理由だ。だからといって彼女は諦めない。その徹底した執念は感心するよりも異常であった。彼女の目には常にDIOしか映っていないようでもある。
「カエサル……いや、シーザー……」
小さな呟きがエンジン音に掻き消される。辛うじて承太郎の耳にわずかばかりの音のみが届いたが、聞き返さなければ千里がなにを言ったかわからない程度であった。それよりも彼は空耳だと思い込む。誰も彼女がその単語を見つめていることに気付くことはなかった。仮に聞こえていたとしても問い質すほどの単語ではない。反応したとしてもジョセフくらいだ。だが彼は千里の読む資料にその名が載っていることを知っているため、さほど驚きはしないだろう。彼女はその文字の羅列に目を細める。
あれだけ天気がよかったはずなのだが次第に霧が濃くなる中、車のライトをハイビームに切り替えようとも遥か遠くを見渡すどころか手前を見るだけでも精一杯の視界にポルナレフが低く唸った。荒涼とした周囲の景色はどこか寂れており、街が見えようともあまり期待はできそうにない。ヒッチハイクの旅人が実は幽霊だったと言われても違和感のないほどの雰囲気だ。昼間であるにも関わらずこの視界ではあまりスピードが出せないとジョセフも溜め息を吐く。まだ午後の三時前だが仕方がない。これ以上霧が濃い中を進むのは危険である。ならば近くに見える街で宿を取るしかなさそうだと判断を下した。
街に入った一行が抱いた街の印象は決して良いものではなかった。霧に覆われた街と呼ぶにふさわしいような、不気味なほどに静かで一種の異様な雰囲気を漂わせていた。人はいる。しかし活気がない。車から降りるや否や、千里は小さく身震いした。相変わらずジャケットは首元までしっかりと閉じている。雰囲気のせいもあるのだろうがどこか薄ら寒い。気温が低いだけではない。建物や人々の与える印象自体が冷たいのである。
レストランでホテルの場所を聞こうと提案した花京院に頷いたジョセフがレストランの主人に問いかけたが、主人は無愛想に「知らないね」と吐き捨てて入り口の札をOpenからCloseに裏返し、ジョセフが慌てて理由を問う間も与えぬまま店に入っていってしまった。それがよそ者に対する排他的なものであったのならば説明がついたかもしれないが、人々はみな自分自身以外に誰もいないように無関心を貫いているようであった。
そのせいなのか誰にもわからないが街中に男の変死体があろうとも悲鳴を上げることはおろか、立ち止まりもせず人々は通り過ぎていく。恐怖に塗り潰された形相の死体は明らかに自殺ではないと物語っているにもかかわらず、路傍の小石と言わんばかりの態度は不気味でさえある。
未だ銃口からか細い白煙を立ち上らせるピストルを千里が死体から取り上げる。変死体の側に落ちている現場証拠を躊躇うことなく素手で触る彼女を咎める者はいた。しかし意味など端からありはしない。
「おいおいやめろよ。気持ち悪ィ」
いぶかしがるポルナレフを尻目に彼女は慣れた手つきでシリンダーを出した。装弾可能数は六発。弾詰まりを避けるならば一発込めずに五発。そして現在シリンダーの中身は空である。正確には空の薬莢が五発、だ。掌にそれを落とした千里がわずかに目を細める。
その理由に気が付いたのはジョセフである。千里の行動に無意味なものは決してないと理解していた彼は、千里がシリンダーの中身を調べたことに感心した。そしてその異常さを同時に理解する。
「一発も入っていない……全弾撃ち尽くさねばならん状況だったのか……?」
それは間違いなく異常だ。旅行者が自衛用として銃を持つのならば常に弾切れしないように心掛けるはずである。そうでなければ自衛用としての意味がないからだ。ゆえに撃ちきるなど尋常ではない状況に陥ったためとしか考えられない。恐怖のまま凍りついた形相がそれを裏付ける。
千里が男の荷物を漁る。そして転がり出る銃弾を拾い、シリンダーに押し込むとなんの抵抗もなくするりと難なく収まった。男に銃弾を装填するどころか薬莢を捨てる余裕すらもなかったのだろう。銃弾はあるのに空の薬莢ばかりが詰め込まれたシリンダー。どれほどまでに追い詰められていたのか。もしくはどれほどの恐怖に追い込まれていたのか。死体の表情から伺い知ることしかできない。
「銃声に気付いていないはずがないのに、なぜ誰も騒いでいない? 警察すら来ていないなんて……」
「確かにおかしい。これは無関心どころの問題じゃあねえぜ」
敵のスタンド使いがいるかもしれないと警戒した一行は念のためにと死体を検分し、その異常さに気が付いた。喉の下に十円玉程度の穴が開いているのだが、なぜだか血が一滴も流れていない。男の死体はミイラのようにひからびているわけではないというのにだ。その不自然な傷跡がただの殺人ではないと物語っていた。死因を知るためにも男の身に何があったのかを把握するためにも、死体の服を脱がせ、そして喉の下にあるような穴が上半身の至る所に開いている事実に驚かないはずがない。
騒ぎだす男たちをよそに千里が空に向かって引き金を引いた。あまり手入れのされていないそれの具合の悪さが若干気になった。しかしすぐに意識は別のところに向けられる。あれだけの大きさで反響して響く異音に振り返るどころか立ち止まる者すらいないのだ。街の住人は変わらず日常を貫いている。その代わり、異様な死体を前にして冷静さを欠いていた男たちが我に返る。
「気をつけろ……とにかくこれで新手のスタンド使いが近くにいるという可能性がでかくなったぜ」
「こりゃあ警戒したほうがよさそうだな……」
間近で響いた銃声に冷や汗を浮かべたポルナレフが呟く。まったく変わらない街の雰囲気を肌で感じてさすがに気付いたらしい。敵がいるかいないか以前に不気味でしかない霧の街は一行に警戒心を与えるには充分であった。しかし冷静さを取り戻せば幾分かはマシになる。彼女はそれを狙って発砲したのかもしれない。
差し出されたリボルバーにジョセフが気付くには若干の時間を必要とした。まだ銃身に熱を残すそれを持っているのはもちろん千里である。たった今上空に向かって発砲した、男の死体が持っていたピストルだ。銃を差し出される、というその行動の意味がわからないわけではなかったが、ジョセフは無表情のまま自身を見上げる娘を見下ろす。
「千里?」
「状態はよくないですが、使えないこともない。……持っていてください」
「ウゲーッ! 死体が持ってた銃だぜ、気持ち悪ィ!」
隣でポルナレフが大袈裟なリアクションを取る。確かに死体の持っていたものなど気持ちのいいものではない。胸ポケットに入っている金銭でさえ触る気にはなれないというのに千里はリボルバーを拾い、あまつさえそれをジョセフに差し出した。ふざけているわけでは決してない。いつだって彼女は真面目で本気だ。間違っても冗談を言わないことくらい誰しもが知っている。
「いや……受け取ろう」
それはジョセフのスタンドがもっとも戦闘向きでないためか、それとも彼が一行の中で銃の扱いを知っていると思ったためか。ジョセフは銃弾が五発込められたリボルバーと数発の銃弾を受けとる。使うことがなくても備えがあれば憂いはない。それが彼女なりの思いやりで優しさゆえの親切なのだと彼は思った。本当に当初より人らしくなっている。おそらく今まで他人との関わりが希薄であったためであろうと彼は推測したが、結局のところはわからない。ただグロテスクな死体を目の前にしてもまったくと言っていいほど感情を揺るがせなかったことに一抹の不安を覚えた。それがなんなのか、まだジョセフにはわからない。