西風の見たもの

「旅のおかたのようじゃな……この霧ですじゃ。もう町を出るのは危険ですじゃよ。ガケが多いよってのォ……」

 まともがないこの街でようやく比較的普通だと思われる老婆が現れたのは単なる偶然か、それとも僥倖の類か。あまりにもできすぎているとも言えよう。しかし実際のところ話の通じる人間がいるというのは非常に安堵できるものであったから、人の良さそうな笑みを浮かべる老婆を前にしてポルナレフは非常に喜んだ。しかしその一方で承太郎は素直に老婆の登場を喜べなかった。不気味な街の中で唯一と言えようその正常さが酷く浮いて見えたのである。それが逆に警戒心をあおったのは言うまでもない。
 警察が三人来て男の死体を運んでいったが明らかに不審死であるにもかかわらず、まったく驚かない上に現場検証どころか事情聴取さえしなかった。面倒だと職務を放棄したのか、余所者なんぞに関わりたくないのかは誰にもわからない。しかしぼそぼそと呟く様子は不気味であった。警官たちを見送りながらジョセフはようやく自身の持っている銃があの男のものだったことを思い出し、内心慌てだしたが、警察たちは凶器を探そうとも現場周辺を調べようともしなかったことに気がつき、黙っていればきっと大丈夫だと素知らぬ顔であさっての方向を向いた。考えてみれば警察は千里のリボルバーにも目を留めなかった。ティーンの女の子が腰から銃をぶら下げているなど怪しんでもおかしくないことだろうに。
 皆が警察を見送る中、一人住民や老婆の様子を窺っていた千里だが視界の端になにかが映り、そちらへ視線を向けた。霧と灰色ばかりの街中で妙に鮮やかな黄色が一瞬視界をかすめていったのである。一秒にも満たない刹那の間のできごとであったのだが、その色は妙に彼女の脳裏に強くこびりついた。そしてその色に思い当たる節があり、薄くしわを眉間に寄せた。無意識に左手が腰に添えられる。気のせいではないがまだ気に留めるレベルではない。しかしそれが警戒しなくていい理由にはならない。

「どうした」
「……いや」

 かすかに殺気立つ千里の雰囲気を肌に感じ、問いかけたのは承太郎だった。彼に声をかけられたためか千里はまとっていた空気を沈めてしまったが、静かに、しかしぴりぴりとした空気をまとう彼女は珍しい。承太郎以外に千里の様子に気付いたものはいない。彼女の左手はいつでも腰のS&W M19を抜く準備ができているようだ。おそらくプラネット・スマッシャーズを発現させる用意もできているのだろう。一行の中で最も警戒心が強く、最も油断とは縁の遠い彼女がここまで露骨に態度に表すのだから、すでになにかが起こっている可能性がある。先ほど花京院が今夜はずっと油断は禁物だと言っていたが、あながち間違いでもなさそうだ。それに千里ならばわずかな変化も違和感も見落とすことはないだろう。おそらく今夜は安心して休むことはできない。承太郎は小さくいつもの口癖を呟いた。

「ささ! ジョースター様、あれがわたしのホテルですじゃ。ご案内いたしますよって……ついてきてくだしゃれ」

 杖をついた老婆が案内したホテルは小さいが可もなく不可もなく、このような辺鄙な土地にあると考えれば並のホテルだろう。目立って古いわけでもない。老婆が結構いいホテルだと自負する程度のことはある。夕食もちゃんとあるらしく、肉がいいかそれとも魚かと老婆は一行に尋ねた。贅沢を言わない限り、一晩の宿にするには問題はなさそうだ。これならまともなトイレがついていそうだとポルナレフが喜ぶ。彼にとってトイレにはあまりいい思い出がないため、他の誰よりもそこにこだわっていた。だがポルナレフに同情する者も慰める者もなどここにはいない。呆れた顔で生暖かい視線を向けるばかりだ。千里だけはいつもの通りの無表情でまったく関係のない方向を向いている。
 だがその中で承太郎もまた違う表情を浮かべていた。老婆の言葉を脳内で反芻し、気付いた違和感に一気に思考が冷えていく。

「待ちなばあさん。あんた……今、ジョースターとかいう名を呼んだが――なぜその名がわかった?」

 老婆の後ろ姿がわずかに震えたように見えた。承太郎の他にそれに気付いた者は誰もいなかったらしく、はっと彼と老婆に視線を向ける。千里だけは相変わらずホテルや老婆ではなく歩いてきた道を眺めているようでその表情を伺うことはできなかったが、すでに警戒している彼女にとってこの程度のことは動揺に値しないのかもしれない。

「いやですねェ、お客さん。今さっきそちらの方がジョースターさんて呼んだじゃありませんか」

 振り返った老婆はやはり人の良さそうな笑みを浮かべながらポルナレフを指差す。商売柄、人の名前はすぐに覚えてしまうのだと言う老婆に疑いの目を承太郎は向けたが、それすらも気付かないポルナレフは話題を老婆の左手に向けた。手首から掌までぐるぐるに包帯で巻かれており、日常生活に不便があるだろうことは明らかである。うっかり湯をこぼして火傷したのだと自嘲気味に笑う老婆にポルナレフは納得が行ったようだ。能天気とも陽気とも言える彼の性格は長所であったが短所でもあった。ジョセフと花京院は笑う老婆とポルナレフに疑念を抱いた視線を向けている。だがここで下手に騒ぎを起こしてはならないと彼らは理解していた。老婆を怪しいと思うのは簡単だが果たして老婆が本当に敵なのか、スタンド使いなのか、他にまだ敵はいるのか。敵が明確でない以上、慎重にならざるを得ない。
 彼らの様子に全く気が付いていないらしい老婆とポルナレフが並んでホテルに入っていく。その後ろ姿を一行は見つめていた。確かに花京院が言っていた通り、今夜は油断できそうにない。どうする承太郎。口を動かすことなくジョセフが問いかける。

「ここから先、不用意に俺の名を呼ぶんじゃあねえぜ」

 承太郎が呟き、表情が厳しくなった二人が頷く。ここまでの旅の経験が彼らに警戒心を抱かせてもなんら不思議はない。仲間以外のすべてが敵だと思っても過剰ではない程度に彼らは敵の本拠地に近づきつつある。視線を交わして頷き合い、ジョセフと承太郎がホテルに足を向けた。それに続こうとして花京院は足を止めた。千里の存在を思い出したのである。常に皆より一歩遅れて行動する彼女の気配を後ろに感じてはいたが、今しがた起こった出来事についその気配から意識をそらしてしまったのである。
 花京院が振り返ると相変わらず千里は後ろを見ていた。微動だにせずじっとどこかを見つめている彼女の左手はヒップホルスターに添えられたままだ。誰よりも早くなにかに気付いていたのだろうか。承太郎は言葉に表したが、彼女はなにも語ろうとはしない。なにに気が付いたのか花京院は気にしつつも、とりあえず声をかける。

「千里、行こう。置いてかれてしまうよ」
「……見られている」

 誰に、もどこから、も言わず、千里は花京院の視線を背中に受けながら呟いた。一つや二つどころではない。多すぎる。敵意も悪意もない、虚無ばかりが含まれた数多の視線。そしてその中に混ざりながらも決して溶け込むことのない視線が二種類ほど。一方の視線の正体を察してはいたが、もう一方の視線がなにか掴めずにいた。敵意がありながらも熱っぽい視線が非常に不快である。
 
「早く入ろう。みんなと離れるのは危険だ」

 花京院に促され、ようやく千里は振り返る。かすかにしかめられた表情が不快であると物語っていた。そんな表情もできるのか。驚きつつも花京院は彼女の意外な一面を発見できたような気がした。聞きたいことはたくさんあったがそれは最優先事項ではないと自身に言い聞かせる。それにどうせ尋ねたところで彼女はなにも答えはしない。
 彼らがホテルに足を踏み入れると最初に入ったポルナレフがちょうど宿帳に名前を書き込んでいるところであった。二人が一行に近づけば、名前を書き終えたらしいポルナレフがペンを花京院に差し出した。そこで下手に躊躇を見せてしまえば怪しまれると彼は思い、黙って受け取る。わずかに考え込んだのち、ペンを走らせた。『Tenmei Kakyoin』別にまったくの偽名を書いたわけではない。漢字を見ればすぐにわかる程度の、ただ単に音読みしただけのことである。先ほどのこともあり、本名を書くのは躊躇われた。続いて承太郎が宿帳に『Qtaro Kujo』と綴る。ポルナレフやジョセフがこれを見たら吹き出していたことだろう。だが幸いなことに彼らが他人の署名に興味を持つことはなかった。
 一番最後にペンを取ったのは千里だった。宿帳に視線を這わせた彼女は一瞬だけ考え込む。そしてその性格をよく表すような硬い筆跡で宿帳に記された『Caesar・A・Zepperi』の文字。わざわざ真面目に偽名を考えようと思うほど彼女は殊勝ではない。車内で読んでいた資料にあった名前を借りただけである。男の名前だろうが女の名前だろうが関係はない。偽名になればなんでもよかった。