皆が老婆から鍵を受け取る間も千里はずっと窓から外を眺めていた。一見ぼんやりと外を眺めているようにも見えるが、その瞳の奥には鋭い光が鈍く灯っている。なにかを警戒しているようであることはこれまでの道中を共にしてきた誰の目から見ても明らかであった。
「お嬢さん、どうしたのですじゃ?」
「いえ……あまりにも霧が濃いので」
だが老婆の問いかけには当たり障りのない返答をする。窓から目をそらし、老婆に差し出された鍵を千里は受け取った。老婆が気を利かせたのか、それとも三人部屋がなかったのか、個室であった。つい、と目を細める。別に誰かと同室でも個室でも構わない。問題はなにもなかった。しかし実際のところ、全員に個室が宛がわれた。
千里の中で老婆がただの一般人ではないと結論付けられていたが、それを証明するものはなにもなく、また老婆が怪しい動きを見せてから行動を起こしても遅くないと考えていた。彼女がもう少しDIOの館に留まっており、また他の者たちと接する機会が多くあれば老婆がJ・ガイルの母親だとは知らずともDIOの側近の一人であるエンヤ婆であると知ることができただろう。しかし残念ながら千里はそこまで知らない。
「女性の旅はなにかと不便が多いじゃろうて。今夜はゆっくりとお休みくだしゃれ」
エンヤ婆に軽く目礼した彼女の視線が承太郎に向けられる。珍しいこともあるものだと思いつつも、それが彼女なりのアイコンタクトなのだとすぐに気が付いた。彼女は無意味な視線など決して向けない。千里と承太郎の中で、この街は怪しいと結論付いている。無言のうちに二人の間で交わされたものがそれを指し示していた。
「――シーザー、行くぞ」
承太郎は千里の名前を口にしそうになりながら咄嗟に宿帳に書かれたサインを思い出し、男の名前を偽名にするのはいかがなものかと今更ながらに思う。彼にもう少し教養があればそれをカエサルと読んでいたかもしれない。もしくはジョセフが自身の青春時代を孫に語っていれば違った反応を示したかもしれない。しかしあいにく承太郎はどちらかと言えば英語圏の人間であり、祖父から昔話を聞いたことがなかった。どうせ呼び合うためでないのだからどちらでも構いはしないのだが。そしてまさか孫の口からその名を聞くと思っていなかったジョセフは驚きを露にしつつも、未だフロントに開きっぱなしで置かれている宿帳を見て得心する。そして同時に千里に渡した資料にその名が載っていることを思い出した。まさか千里が彼の親友を知っているわけでもあるまいと苦笑する。
承太郎と千里の間で交わされたアイコンタクトを見てしまった花京院の中で言葉にするには難しい感情が生まれ、わだかまる。承太郎は自身より強く、頭がいい。千里もまた強い上に誰よりも先に異常に気が付く。彼からしてみれば同世代の仲間であるはずなのに、一歩も二歩も先を歩かれているような気がしてしまう。最終的に頼りになるのはいつも承太郎で、咄嗟の判断を下して最善に導くのは千里だ。なにがこんなに違うのか。それに。
そのあとに続く言葉を頭の中から無理矢理消した。ひっそりと拳を握り締め、階段へ向かう承太郎と千里を追いかける。馬鹿なことを考えるようになったものだと自嘲しながら。ポルナレフ程度に能天気であれればよかったのに、などと考えてしまったことはもちろん彼しか知らない。
三階に用意された部屋へ向かうために階段を上っている最中、ロビーの奥がなにやら騒がしいとポルナレフが階段を下りていく。ロビーにいるからなにかあったら呼んでくれと言い残した彼の後姿を見送りながら、ちらりと承太郎が千里に目配せを送った。千里はゆっくり瞬きをすることでそれを受け、ジョセフと花京院の様子を一瞬だけ見てからさっさと階段を上っていく。それはポルナレフなら危険な目に遭っても大丈夫だろうと考えているとも取れたし、騒動が起きる前であるからまだ様子見に徹しているようにも見えた。後者と解釈した承太郎はとりあえずまずは先に部屋に荷物を置きに行こうと考える。それからロビーに行けばいいと結論付けた。
そこそこの時間は経過したことだろう。特にロビーに用事があるわけでもないだろうに隣室にポルナレフが戻ってきた気配が一向にない。これは面倒なことに巻き込まれたに違いないと承太郎は窓枠から体を離し、煙草を窓枠に押し付けて火種を揉み消す。それまで眼下に広がる街を眺めていたのだが、不自然なほどに人気がない。先ほどまでその街中にいたときにはそれでも確かに住人がいたにもかかわらず、今現在は掻き消えてしまったのかと思うほどに誰もいないのだ。他のメンバーに注意を促しておくべきかと一瞬考えたが、千里がいるから異変があればすぐに気付くだろうとまっすぐロビーへ向かうことにした。ドアを開く音がやけに鮮明に廊下に響く。歩けば聞こえるのは自身の足音の身で酷く静かなホテルの中には承太郎たち以外には誰も宿泊していないようだ。
一階まで降りてロビーに入り周囲を見回してもポルナレフの姿はない。見回さずとも彼が静かにロビーにいるはずがないことを考えると、彼の声が聞こえない時点でなにかが起きていると解釈してもよかったのだろう。ポルナレフの声は聞こえなかったがその代わりにロビーの奥の部屋がなにやら騒がしい。ドアが閉まっているため中の様子は窺えないが、ポルナレフが襲われているのだろうとは容易に想像できた。何度かドアをノックしてみたが中から反応はない。どうやらノック音に気付けないほどに取り込み中らしい。承太郎はドアを蹴り開けた。