千里が目を覚ましたのはあの船の中ではなく、見覚えのない甲板の上であった。承太郎たちを襲撃したあの船には爆薬が積んであったらしく、偽船長が爆発させてしまったのだ。それから救命ボートで短時間漂流したあとに遭遇した巨大貨物船。承太郎たちはそれに乗り込んでいたのである。人の気配はないのに勝手に動く幽霊船。緊張の面持ちで一同が警戒する中、千里は目を覚ましたのであった。
うなじに残る鈍痛に千里はわずかに顔を顰め、起き上がる。甲板には複数人の男の姿がある。その中に自分が殺そうとした男たちの姿を認め、彼女は目を細めた。肉の芽で操られていた間の記憶が失われることはない。いいようにDIOに利用され、そして敗北した。曖昧にすらならなかった記憶に内心舌打ちする。確かに彼女は負けた。戦場において敗北とは常に死を意味している。しかし生きているということは、千里が命を狙ったあの男たちに助けられたということだ。操られていたとはいえ、一片の慈悲もなく純粋な殺意を持って殺そうとした千里を彼らは殺さなかった。殺されて当然の状況下で情けをかけられたのだ。不快感が胸に蟠る。死にたかったわけではない。殺す価値がないほどに弱いということを思い知らされたからだ。
「ああよかった。目が覚めたようだね」
不意に聞こえた柔らかな男の声。発生源に目を向ける。そこにいたのはあの男、千里と対峙し、千里が負けた男だ。片膝をついて上体を起こした千里の顔を覗き込み、罪悪感でも感じているのか、具合はどうかと尋ねる。この男はお人よしなのだろうと千里は思った。そうでなければ命を狙った相手に情けをかけるはずがない。しかも千里への最後の一撃はスタンドによる攻撃ではなく、本体による当て身だった。女相手だからと手加減されたような気がしてさらに胸糞悪くなる。そして同時に生温い男だと思った。優しさと甘さを履き違えているような気がしてならなかった。
「覚えているかい? きみはDIOの肉の芽に操られていたんだ」
千里の心を知ってか知らずか、男は敵意のない柔和な笑みを浮かべる。千里から肉の芽が抜かれたからといって、彼らの敵にならないとは限らない。DIOの支配下から抜けた彼女が善良である思い込んでいるのだろうか、それとも襲われても返り討ちにできると過信しているのだろうか。生温いと千里は再度思った。年はあまり変わらないだろうに、育った環境の違いかまったく違う。命のやり取り一つにおいても認識がここまで違う。彼は性善説を信じるタイプなのだろうと千里はふと思う。人の良心を愚直なまでに信じるのだろう。別に千里は殺されなかったことを恥じているわけではない。だからといって生きて汚名を雪ごうとも思っていない。ただ、生かされたことだけが気に食わなかった。
「ぼくは花京院典明。きみの名前を教えてくれないか」
警戒心のかけらも見せない彼を前にして、素直に名乗るべきかと彼女は逡巡する。DIOの支配下から救われたことは感謝してもいいのだろうが、簡単に他人に心を開くほど素直でもなかった。情報を得るためだけに千里を生かしたのかもしれない。考えれば考えるほど疑心暗鬼に陥る。同時にこれから先のことにも意識が向けられる。適当な港で降ろされることになるのだろうが、素直に家に帰るか雪辱を果たすためにエジプトへ向かうか。やることは存外多くあるように思えた。だが根底はなにも変わらない。千里にできることなど最初から限られているからだ。
なにも答えようとしない少女を不審に思った花京院は、再度千里に声をかける。花京院は目覚めてからずっと無表情のまま反応しない彼女を純粋に心配していた。千里に肉の芽を植え付けられていたときから思ったことだが、彼女は感情を有していないらしいのか表情がない。灰色の瞳はどこまでもまっすぐで、澄んだ水のように奥深くまで澄み渡っている。だがそこに色はなく、無色透明であるためになにを考えているのかわからない。なにもないのだ。綺麗な双眸はなにも語らない。肉の芽が敵意や戦意を引き出していたのか、肉の芽が抜き取られた今となっては人形のように感情が見えない。ただ、そのくせ威圧感だけはある。西洋人形の丸い大きな瞳を見つめ続けていると人形自体が不気味に思えてくるように、長時間の直視はできなかった。人としてなにかを欠如しているようにも見えた。
「黙っていてはわからない。具合が悪いなら言ってくれ」
「――どうして殺さなかった」
ようやく反応があったかと思えば予想外の返答であったために花京院は面食らい、大きく目を見開いた。心地好い澄んだ響きのアルトボイスに含まれる感情はない。怒っているのか戸惑っているのかさえわからない。やはり人としてなにかが欠けている。セーラー服を来た少女の発する言葉にしては不自然すぎた。返答に窮する花京院から灰色の視線がそらされる。酷く静かな声が彼の鼓膜を震わせた。
「なぜわたしを生かした」
「きみは肉の芽によって操られていたんだ。洗脳された相手を殺すほどぼくだって非情じゃないさ」
そらされていたグレーの瞳が再び花京院に戻される。その居心地の悪さに花京院は少しだけたじろいだ。やはりなにを考えているのかわからない。だが心の奥底を覗かれているような錯覚に陥る。花京院の言うことに嘘偽りがないか探っているようでもあった。酷く疑心暗鬼な少女である。彼女からしてみれば敵対した相手をよく知らないままに信用しろと言っているようなものだから仕方ないのかもしれないと花京院は思ったが、そんな簡単な理由でもなさそうだとふと思う。だがそれを尋ねるほど親しい仲ではないし、親しくたって気軽に聞けることでもない。わざわざ聞こうとも思わない。
「きみはぼくに負けた。つまり、きみの生殺与奪権はぼくにあるということだ……それで納得してくれないかな?」
困り顔で花京院は苦笑する。この話を終わらせるには妥当な理由だろう。むしろこれ以上の良策を思いつかなかったと言った方が正しいかもしれない。理詰めで追いつめることは可能だろうが無駄な熱量を消費する必要もない。ただなにとなく彼女への説得はこれが最善だと感じたまでだった。
「だから改めて、名前を教えてくれないか?」
「……千里」
納得したのかしていないのかわからないまま少女は名乗った。澄み渡ったアルトボイスによく似合う名前だ。花京院はそんなことを考えながらも微笑む。改めて千里を見ると、最初に目につくのはすっきりとした目鼻立ちの通った顔。肩にかからない程度の髪はビターチョコレートのような色で艶を持ち、日本人らしからぬ灰色の瞳はどこか狼を彷彿とさせた。承太郎のようにハーフなのだろうか。彼女に表情が宿ればどのように相好を崩すだろうと考えながら、花京院は少し離れたところにいるジョセフに声をかける。
「ジョースターさん。彼女が目を覚ましましたよ」
花京院の声にジョセフが二人の元へ来る。花京院は立ち上がったが、千里は上体を起こしたまま動かない。まさか不意打ちをしかけるつもりかと危惧して花京院はさりげなくハイエロファント・グリーンを発現させたが、予想に反して彼女はなにもしなかった。体重を感じさせない動作で千里が立ち上がる。花京院との戦いのときにでも破れたのか、黒いセーラー服は所々穴が空いていた。だがそのようなことには無頓着なのか、千里は恥じる様子もない。
「ジョースターさん、彼女は千里さんというそうです」
「そうか。きみに色々尋ねたいのじゃが、今はこの怪しい船の正体を突き止めなければならん。協力してはもらえんかね?」
「……ええ、構いません」
最初は女性が相手ということで警戒させないように笑みを浮かべていたジョセフだったか、千里の素っ気なさに取っ付きにくさを感じたようだ。だがそこは年の功というべきか、表情には出さず家出少女の面倒を彼女に頼む。千里も特に断る理由もなかったため、それを受け入れた。花京院は千里がそれを断ると思ったのだが、素直にジョセフの頼みを聞き入れたことを意外に思った。年長者を敬う性格なのかもしれない。
すぐに家出少女が呼ばれ、千里と対面する。言葉数少なく無感情を貫く彼女に家出少女は懐かないかと思われたが、唯一の同性であったためか少女は簡単に千里を受け入れた。千里も少女を構うわけでも放置するわけでもなく、そこそこに相手をしている。と言っても、家出少女が一方的に話しかけ、千里がそれに相づちを打つか短く返事をするかだけであるが。二人の様子にジョセフは安心したのか、花京院に声をかけ再び船の捜査に戻る。無人であるにも関わらず船は順調に航海を続けていた。