沈める寺

 ラバーズと名付けられた、タロットカード「恋人」の暗示を持つそのスタンドの攻撃はすでに始まっていた。攻撃、と表現するのはいささかおかしいかもしれない。ただスタンドはスタンド使いの精神エネルギーを具現化したものであり、またスタンドが傷付けばスタンド使いも傷付くというスタンド使いならば当然知っているだろう常識レベルのそれをダンのスタンドは忠実に再現していた。スタンド使いが傷付けばスタンドにも影響が出る。ラバーズはダンの受けた痛みを対象に寄生し同様の痛みを与えるだけの、いわばカウンター型のスタンドとも言えよう。
 そしてその対象にジョセフが選ばれた。ダンにダメージを与えれば与えるほど、その感覚はすべてジョセフにフィードバックされる。脳の奥に寄生されれば外部からそれを取り除くことは非常に難しい。さらには肉の芽を脳内に持ち込んだと告げられ、ジョセフは青ざめた。どのような末路を辿るかなど、エンヤ婆を見てしまっているため簡単に想像できる。力がなくとも人間を殺すことなど容易い。ダンは言う。彼を傷付ければ、彼が痛みを感じたその場所と同様の場所に数倍にも増幅した痛みをジョセフに与えることができるため、無防備であろうと関係はない。ダンが躓いて転ぶだけでもジョセフには大きなダメージとなるとわかっているために、誰も手出しできずにいると理解しているのだ。
 ダンの胸ぐらを掴み、痛みを感じる間を与えずに殺すと承太郎がいきり立つが、それを花京院が押し止める。いくらスタープラチナの力が強いと言っても、確かに一瞬で殺せるとは限らず、ダンが一瞬でも痛みを感じないとも限らない。失敗したらジョセフが即死であると考えれば、花京院の行動は当然のことである。それを見つめたままさりげなく千里がダンの背後へと移動した。ポルナレフが軽率な行動を制止するような視線を送る。
 承太郎が手出しをしないと気付いたダンが一変して余裕の笑みを浮かべ、やってみろと挑発する。だがやると言ったらはやる、と再度ダンの胸ぐらを掴んだ承太郎を今度は花京院とポルナレフの二人掛かりで押さえつけた。一刻でも早くダンをぶちのめしたいと思っている一方で、ジョセフが死ぬかもしれないリスクを考えるとやはり手を出すことができない。冷や汗を流しながら有利だと確信したダンが承太郎の腹に拳を沈める。わずかに吐血し崩れ落ちた承太郎をダンは拳よりも大きな石で殴りつけた。ジョセフの次に殺すのは貴様だと宣言し、抵抗もできず地に膝をつく承太郎の姿に高らかに笑い声を上げる。
 孫が一方的に蹂躙されるさまを目の当たりにし、ジョセフは必死に思考を回す。若い頃、心臓に毒薬を埋め込まれたこともあった。あのときは重婚だなんだと茶化す程度の余裕があった。だが今は一刻を争う。危機的状況は今も昔も変わらないが、一点だけ違う部分があるとすればジョセフが人質同然となっていることだ。脳内に入り込んだスタンドをなんとかしない限り、ダンの攻撃を一方的に受けることとなる。なんとかしなければ、と空転する思考を働かせたのち、花京院とポルナレフとアイコンタクトを交わして走り出した。ポルナレフがそれに続き、花京院が振り返る。

「承太郎、そいつをジョースターさんに近づけるなっ。そいつからできるだけ遠くへ離れるッ!」

 次いで深緑が鉄色の双眸を捉え、交わる。手を差し伸べる。

「千里! きみも早く……」
「おいおいクオレマ、お前はこっちだ」

 割り込んできた声にグレーの瞳が仲間から敵へと向けられた。そう言われることを予測していたのか、端からジョセフたちと移動するつもりがなかったのか。その場から動くそぶりすら見せないまま視線が花京院へ戻され、千里は素早くホルスターからリボルバーを抜いて彼に投げた。それを受け止め花京院は戸惑ったが彼女が無意味なことをするはずがないと思い出し、それを手にしたままジョセフたちを追いかける。千里の視線が承太郎に向いた。なにかを告げるわけでもない双眸が細められる。それを受け、彼女の一連の行動の意味に承太郎は気付いた。ダンに銃を奪われればなにをされるかわからない。ただそれだけのことを危惧していつも肌身離さず持ち歩いている銃をあっさりと手放したのだと。

「ほう、なるほど」

 ジョセフと千里の機転に気付いて感嘆の声を上げつつも、ダンはそれがどれほど無意味な行動かをよく知っている。距離を取ればスタンドの力が弱まるとの考えたのは確かに基本的なことであるため当然とは言えてもラバーズは違った。スタンドの持つ力が弱い分、遠隔操作に長けている。どれだけダンから離れようともジョセフに与えるダメージが軽減されることはない。それに銃などなくても殺す術などいくらでもある。ゆえにわざわざそれを口にて懇切丁寧に説明するほどにダンには余裕があった。

「おい承太郎、おめーに話してんだよ。なにすました顔して視線避けてるんだよ。こっち見ろ」

 ジョセフの後ろ姿を見送るわけでもダンを睨みつけるわけでもなく、まったく違う方向に顔を背けている承太郎に気付き、学ランの襟を掴む。先ほどまでの怒りも落ち着いたのか、承太郎は冷ややかな視線だけをダンに向けた。

「てめー、だんだん品が悪くなってきたな」

 つけは必ず払ってもらうと言われようとも、今の承太郎にできることなどなにもない。承太郎が抵抗しないことをいいことに、ダンは彼の財布を抜き取った。財布の中を見て舌打ちする。

「これしか持ってないのか。時計は生意気にタグホイヤーだがな。借りとくぜ……」

 財布の中身と腕時計を取りながら、学ランのポケットの中に煙草があることに気が付いてそれも抜き取る。そしてと一本口にくわえて火をつけた。肺一杯に吸い込んだ紫煙を承太郎の顔に吐き出す。眉間に皺を寄せた承太郎を嘲ってから二口三口吸ったのち、手に持つ煙草と千里を見比べ、にやりとなにかを企んだような笑みを浮かべた。

「煙草はあるくせに携帯灰皿がないとは……マナーがなってないな」

 そしてダンの標的が承太郎から千里へと移る。それまでずっと二人の行動を見つめるままだった彼女は眉一つ動かさずにダンの行動を見ているばかりだ。

「ほら。手、出せよ」

 ダンの命令に千里はゆっくりと一瞥し、抵抗もせず左手を差し出した。千里と掌を見比べたのち、灰皿替わりのつもりかダンは持っていた煙草を置いた。小さな音がして、高温の熱源がじりじりと彼女の掌を焼く。そして灰を落とし、ゆっくりと喫煙を楽しんだのち、火種を揉み消すように千里の掌にぐりぐりと押し付けた。ジュッと嫌な音がして、わずがに肉の焼けるにおいが承太郎の鼻孔に届いた。だが千里はわずかに眉をひそめるだけで反応を示さない。
 痛覚がないんじゃあないかと承太郎は訝った。それだけ表情筋がほとんど動かないのだ。彼女の性格上、すぐにでも攻撃に転じたいと思っているのかもしれないが、それでも耐えなければならないのはジョセフが人質にとられているからだ。そのくらいのことは彼女も心得ている。しかしそれを表情に出すことは決してない。

「大したタマだ……だがおれは小賢しい女は嫌いなんでね」

 蹴りが千里の腹に吸い込まれる。目を見開き、かはりと息を吐き出すも倒れることなく耐えた彼女の顔面に間髪入れず拳が叩き込まれ、わずかに歪んだ表情を浮かべて千里は地に倒れ伏した。思わず動きかけた承太郎だったが「動くんじゃねえ!」ダンの一声にジョセフが人質に取られていることを思い出し、出しかけた拳を引っ込める。酷く満足げににやにやとダンは笑い、倒れる千里の腹に再度蹴りを入れた。そして髪を掴んで無理矢理頭を上げ、頬にタンを吐きつける。

「やめろ!」
「強情な女を屈服させるのは嫌いじゃあないが、強情すぎるのも考えものだな」

 承太郎など完全に無視し、ダンはそのまま彼女の頭を地面に叩き付けた。千里は頭をかばい、直撃を免れぬも頭部を勢いよく踏みつけられる。承太郎は目の前で蹂躙される一方の千里の姿にふつふつと沸き上がる怒りを必死に抑えていた。ダメージはすべて増幅されてジョセフに送られるため、手出しはできない。額に青筋を浮かべながらも必死に堪える承太郎をダンが鼻で笑う。そして千里の顔面を蹴った。かろうじて両腕でそれを防ぐも、がら空きとなった腹部に革製の靴の爪先がめり込む。小さなうめき声が上がった。そしてダンはマフラーを掴んで無理矢理彼女を立ち上がらせ、攻撃を受けてなお自身の力で立つ千里を承太郎の前へ押しやった。承太郎の頭の中で嫌な予感がよぎる。

「やっぱり女の子に手を上げるのは良心が傷む、なあ?」

 それまで楽しそうに暴行を加えていたダンがなにを思ったのか、猫撫で声で言い放った。嘲りを浮かべるダンをどれだけ睨みつけようとも今の承太郎に何かができるわけでもない。それを理解しきっているダンは余裕の笑みを浮かべ、嘲り、鼻や口から血を流す千里を親指で指した。

「だから承太郎、おまえがおれのかわりにそいつを殴れ」

 言われるがままに千里を殴れるはずもない。だがやらなければジョセフの命に関わる。承太郎は逡巡し、唇を噛み締める。できないが、やらなければならないとわかりきっているからこその葛藤であった。千里は女であることを忘れさせるほどに揺るぎなく、強い。ゆえに今までさほど意識したことのなかった承太郎であったが、彼女が女であると今一度理解してしまえば拳を向けることに躊躇が生まれる。性別以前に仲間である彼女を全力で殴るなどできるはずがなかった。

「できるだろ? 女相手にも容赦しないおまえならできないわけがないよなぁ?」

 できないとは言えないが、できるとも言えない。

「さっさとしろ! いつもやっているみたいに思い切りブン殴ればいいだけだろうが! 今さら女は殴れませんなんて言い出さないだろうなあッ!」

 近くのポールに自身の足をぶつけ怒鳴るダンを前に承太郎は逡巡する。またジョセフにダメージが入ったことは明白だ。早く言うことを聞かなければと思う一方で、やはり躊躇われた。
 近くで千里を見ればさらに酷い顔になっている。もしかしたら鼻の骨も折れているのかもしれない。自身の血と砂埃でカッターシャツも汚れてしまっていた。腕も足も細かい擦り傷にまみれている。ジャケットを着ていればもう少しマシだったのだろうが、気温が上がるにつれて暑さに辟易した千里はジャケットを荷物と一緒にしてしまっていた。普通の女の子だったら泣いたっておかしくないだろう苦痛を受けているくせに、その双眸だけはいつもの色を失わず、物怖じしてしまうほどにまっすぐ承太郎を見ている。

「躊躇うな」

 小さな呟きは確かに承太郎の耳に届き、信じられないと言いたげに彼は千里を見返した。しかしそこにはいつも通りの、鉄色でなにを考えているかわからない瞳がある。息を吸い込みゆっくりと瞬きを一回するも、千里はじっと承太郎を見つめている。それが覚悟などという殊勝なものではないと、彼は気が付いた。承太郎に殴られることが当然だと言わんばかりの、それを受け入れることが当たり前なのだと、ゆえに関心を寄せる価値すらないと、異常なまでの態度だ。この件に関して承太郎がどれほど葛藤に苛まれ、罪悪感を抱こうとも、彼女は寸分たりとも慰めもしないしなにも思わないだろう。路傍の小石以下の些細な事象だとしか思っていないのかもしれない。
 ああ最低の気分だ、この上もなく最悪だと心の中で一人ごち、承太郎は拳を振り上げた。