雨の樹

 喧嘩など今まで数えきれないほどしてきた承太郎にとって、殴ることなど造作のないことである。それこそ今まで食べてきたパンの枚数と同じくらいにこなしてきた動作だ、やりかたなど教わらなくてもわかる。しかしいつもそこには意味があった。喧嘩をふっかけられた、仲間が傷つけられそうになった、命の危機を感じた等々、様々な理由はあれど無闇矢鱈と相手を殴ることなど決してなかったそれが彼にとっての正義である。
 ゆえに千里を殴れとダンに命令されたとき酷く戸惑い、躊躇いが生じた。肉の芽を植え付けられていたあのころならばともかく、今の彼女は承太郎に対してなにもしていない。つまり殴る道理がない。しかし殴らなくてはならない理由はダンが用意している。ジョセフの命を守るために千里を犠牲にしなければならなかった。それを免罪符に自身を誤魔化さなくては千里を殴ることなどできはしない。
 自身の拳にダイレクトに伝わる皮膚の温度や柔らかさにこれほど嫌悪したことはない。男よりも柔らかく、男よりもダメージが入りやすい。ダンが止めるまでやめることができない承太郎の苦痛を前にして千里の表情が歪む。さすがに耐えきれなかったのだろう。彼女とて人間である。人よりやや痛みに対して耐性があろうとも、ダンに次いで承太郎から止むことのない一方的な暴力を前にしては耐え忍ぶにも限界があった。吐き出された黄色い胃液が服を汚す。ぐちゃぐちゃのべとべとになったカッターシャツもプリーツスカートもマフラーも、もう使い物にはならないだろう。

「承太郎。そろそろお前の相手をしてやるよ」

 ダンから制止の声がかかったころには千里は息も絶え絶えに地面に伏していた。ダンに気付かれない程度に手加減していたとはいえ、そう何度も承太郎に殴られて無事でいられるはずがない。気絶してしまったほうがお互いによかったのかもしれないが、気絶しない程度に、気絶しても叩き起こせとダンに命令されていたために千里は意識を飛ばして痛みから逃げることも、一発殴るごとに積み上がる罪悪感から承太郎が抜け出すこともできなかった。
 承太郎の目の前でダンは地に伏す千里の頭を踏みつけた。 地面に転がる千里から反応はなく、呻き声すら聞こえない。

「まずは……そうだな。喉が渇いた。飲み物を買ってこい」

 財布はダンに取られている。金もないのにどうしろというのだ、との承太郎の視線を受けて彼は勿体ぶりながら先ほど取り上げた財布から紙幣を一枚出し、ひらひらと承太郎の前で見せつけてからぱっと指を離した。緩やかに紙幣が地面に落ちる。

「ほら、拾えよ」

 ダンを一瞥し、承太郎は身を屈めて紙幣を拾う。その瞬間、承太郎の頭部に蹴りが叩き込まれた。頭上から嘲笑が降り注ぐ。ぎりりと唇を噛み締め、千里に目を向けた。承太郎を蹴るためにダンの足は頭から離れていたが彼のいるところからは後頭部しか見えないため、いつものあの灰色がどうなっているかはわからない。自身の吐瀉物の中に倒れて、むき出しの腕と足にはたくさんの細かい擦り傷と青痣ができている。承太郎が暴行を加えていた間に骨の折れる感触はなかったが、それでも早く手当をしなければならないことは一目瞭然だ。
 承太郎の視線が千里に向けられていることに気が付いたダンは千里の体を蹴り飛ばした。まるでゴミのような扱いだ。ごろりと千里の体が転がり、その表情を承太郎に向ける。額を切ったのか頭部から流れる血が鼻血と混ざって顔面を真っ赤に塗り替え、さらには砂埃や胃液がそれに加わって目を背けたくなるほどだ。

「女とは思えないほどに汚ない顔だ。靴が汚れたぜ」

 あとで靴を綺麗に磨いてもらわないとな。侮蔑と嘲笑を千里から承太郎に向ける。どれだけはらわたが煮えくり返ろうとも、今の承太郎にできることはない。睨みつけるのが精一杯だ。それを受けてダンはもう一度千里を蹴り飛ばした。

「ぐずぐずするな、さっさと飲み物を買ってこい。十秒遅れるごとに千里を蹴り飛ばしてやろうか」

 早口で数を数えだしたダンを前にして身を翻し、紙幣を握りしめて駆け出した承太郎の背中に高らかな笑い声が投げつけられる。
 最も近い喫茶店でチャイを購う間、道行く人々が承太郎を指差しひそひそとなにかを言っていた。おそらく承太郎が千里を殴っているところを見ていたのだろう。居心地の悪さを感じながらもチャイを購入し、急いで戻る。ティーカップで出てきたことに嫌な予感がしたが、どうすることもできない。千里は変わらずダンの足の下にいた。丁寧にもダンは十秒ごとに彼女を蹴りつけていたらしく、先ほどと体勢が変わっていた。
 承太郎が買ってきた熱いチャイを受け取ったダンはそれに口を付けることなく、躊躇いすら見せることなく千里の頭へ中身をすべてぶちまけた。甘ったるい匂いを共にびちゃびちゃとビターブラウンの髪を濡らす。最後にカップを彼女の体にたたきつけた。カップは千里の体をクッションにして地面に落ちて転がる。我慢の限界だった。

「――おい、意識のない千里をボコボコにしてなにが楽しい。やるならおれにしろ」
「そう慌てるんじゃあない。言っただろ、そろそろお前の相手をしてやるってな」

 それで満足したのか飽きたのか、ダンは千里から離れてずいと承太郎に近寄った。ついてこい。嘲笑まじりに囁いて歩き出す。承太郎は地面に倒れ伏す千里が気になったが、ジョセフの命を考えると黙ってダンについていくしかない。小さく謝罪を呟いて憎たらしい敵を追いかけた。